天使の休暇

少女と天使に関するとりとめのない印象.

 

まず,印象の空間に,一人の少女を仮定しよう.少女は小柄で,華奢で,色が白い.まあ,可憐と言って差し支えない.小柄なこと,華奢なこと,色が白いこと,そして,可憐と言って差し支えないことは,少女の年齢には関係ないので,年齢は幾つでもいい.幾つでもいい,とは言っても,一般に”少女”と呼んで差し支えない範囲での話だ.何事にしても,差し支えがあっては困る.

 

今,少女は目を伏せている.理由は幾つか考えられる.

第一に,眠いからだ.彼女は眠りと折り合いが悪い.一般に,少女という存在の多くは眠りとの折り合いが良いとは言えないが,この少女は他の少女と比べてもとりわけ眠りとの折り合いが悪い.上手に眠る方法を,彼女は忘れている.それを思い出せずにいる.思い出すまで,きっと彼女は寝不足のままだ.そう,彼女はかつての眠り方を,まだ思い出せずにいる.だから今も,少女は眠い.眠い少女は目を伏せる.

第二に,本を読んでいるからだ.少女は今,本を読んでいる.何か詩的な本だ.ある本が詩的であるための条件は存外に少ない.まずそれがハードカバーであること.次にその装丁がほどよく幾何学的であること.そして,それを手に取る読者が詩人としての資質をそなえていること.なるほど,少女というのはそれ自体で詩的なオブジェクトだが,この少女はとりわけ詩人としての資質に優れている.そんな彼女の詩的な視線がふっと紙面を撫でる.書を読む少女は目を伏せる.

第三に,物憂いからだ.けだし,少女とは物憂い存在だ.世界は全方位から少女の感受性を物憂くさせる.世界は鬱蒼としていて,目まぐるしくて,綺羅びやかで,騒々しくて,白々しくて,胡散臭くて,ところどころささくれ立って,舐めると苦い.可憐と言って差し支えない少女にとって,世界は薄靄の倦怠だ.立ち込める物憂さは心に斜の陰翳を作って,あるいは他人はその翳りを病と呼ぶのかもしれない.物憂さの影は瞼にも差す.物憂い少女は目を伏せる.

第四に,安堵しているからだ.少女はかくも物憂い世界に呆れ果て,やがて呆れるのにも疲れて,ついに休暇を取った.少女はこのバカンスを利用して,物憂い世界を見下ろせる,高く見晴らしの良い場所に出かけることにした.少女が向かったのは,獣臭い気配のしない,天使のすみかだった.そのゲートで一通の手紙と,それに同封された天使の烙印を見せると,少女には館の一室があてがわれた.荷ほどきを手早く済ませると,少女は本を手に取り,ベッドに潜り込んだ.こうして少女は精神病棟の個室で,ようやく安堵のため息を漏らす.体の力が抜ける.視線は重力に引かれてゆく.安らかに少女は目を伏せる.

 

他にも理由はあるかもしれない.しかし,ないかもしれない.どれが理由であれ,どれかが理由であれ,どれもが理由であれ,とにかく今,少女は目を伏せている.必要なのはこの事実だけであって,理由などどうでもいい.ただ,どうでもいいことの中にこそ豊かさはあり,少女とは元来とても豊かな存在なので,少女的な豊かさの源泉としてなら,こんな理由があってもいい.とにかく,精神病棟の一室には書物を手に目を伏せている少女がおり,彼女は小柄で,華奢で,色が白く,可憐と言って差し支えない.

少女は病室のベッドで本を広げている.病室は広く,日当たりがよく,当然のようにカーテンは白い.少女はヘッドボードを背もたれに,目を伏せて何かを読んでいるが,何を読んでいるのかは分からない.少女なので,それが詩的であれば何を読んでもいい.本を持つ手は小さく,指は細く,爪は桃色に透き通っている.

少女がうずまるベッドは白い.ほぼ理想的に白い.おそらく,病室にある他のあらゆるものと比べても,もっとも白々しく白い.これは病床なのだから,やはり潔癖に白くなくてはいけない.少女にとってのベッドというのは,えてしていくら白くても足りないほどの白さを求められる.

少女はパジャマを着ている.色や柄は可憐さを損なわない範囲でならなんでも構わないが,素材には多少光沢がなければいけない.少女のパジャマは少しゆったりとして見える.これは,少女が天使だからだ.たたんだ背中の翼の上から羽織っても窮屈にならないためだ.もっとも少女の背中に翼などない.しかしここで,翼の有無は問題にならない.天使の本質は翼を備えることではなく,翼を想像することにこそあるのだ,と少女は知っている.

少女の病室には百合の香りが充満している.なぜなら,百合が咲いているからだ.少女の傍らの花瓶に活けられた大きな百合だ.カサブランカ.造花のように肉厚で,それでいてところどころ枯れかけてもいる.蕊にたくわえた濃い蜜柑色の花粉が,空調の微風にふるえて落ちる.

テーブルの上には,水差しと,コップ.水は常温で,切ったレモンが一欠片浮いている.その横に方眼紙のメモ帳と,プラスチックのボールペン.水性のインクは当然,青い.メモ帳にはトリビアルな数式がいくつか,青い字で書きつけてある.少女の数式は青い.数式はトリビアルであればあるほど病的で,ゆえにそれは天使的だからだ.

食事.この少女は天使の食事を好まない.味が薄くて,量が少なくて,あまりにも感覚的凹凸がないからだ.ただ,味覚的な快楽を望めないまま淡々と運ばれてくる食事は,外界のそれよりも純粋に形式的で,儀式めいてはいる.少女は儀式的に食器を扱い,儀式的に食物を扱い,儀式的に食事を終える.少女に儀式が必要なのと同様に,天使には儀式が必要だ.まして,少女でも天使でもあろうとするなら,かなり儀式的な儀式が必要なはずで,その意味でこの食事は実に丁度いい.

全ての休暇がいつか終わるように,天使の休暇もいつか終わる.休暇の終わりが何を意味するか,少女は知っている.また,何が休暇の終わりを意味するのかも,少女は理解している.しかし,少女はそれらを口に出さない.多弁な天使は悪魔と呼ばれることを,彼女は知っているからだ.少女はすでに多くに気がつき,多くを知り,多くを理解しながら,直観の手前で一途な沈黙を続けている.沈黙する少女は目を伏せる.