真っ青な夏の夜にひとりで街を歩いていると,不意に携帯電話がなった.きみからだった.液晶画面にうつるその名前を見て,身体の奥から,沈殿した記憶が舞い上がるのを感じた.

もう3年になる.3年前の,あれも夏のことだった.翡翠色の海の水際を,朝焼けに目を背けながら歩く真っ白なきみのシルエットが閃いた.海辺に並んで,その日の夕陽を見送ってから,僕たちは会わなくなった.連絡も取らなかった.たくさん撮ったきみの写真も,すべてなくなった.

通話を繋ぐと,当然のようにきみの声がした.ぎこちなく他愛ない久闊のあと,"いつ会いましょうか" と,きみは簡単に言う.

"それで,いつ会えるんですか?"

あいまいにはぐらかす僕に,きみは何度もそう言う.僕はそのたびにまた,あいまいにはぐらかす.きみと離れてから,僕はすっかりあいまいな存在になってしまっていたからだ.それでもきみの声は,はっきりとした輪郭で僕の予定を問いただす.

困ってしまった.きみの声が相変わらずとても綺麗だったことにも,自分の存在のだらしのないあいまいさにも.

僕は変わった.僕の実存の輪郭はすっかり薄らかな破線になって,街に溶け出してしまっている.感覚は平坦になって,自分の弱さにばかり敏感になって,自分ではない人間たちの弱さを想像する官能はすっかり磨耗してしまった.人間の流す涙の意味が分からなくなった.化粧品を吸った涙が肌の上をすべって描く,その軌跡をじっと眺めることしか出来なくなった.

 

今更,きみのことを求めているわけじゃない.僕はきみを必要としない人間になっているし,きみだってきっとそうだろう.ただ,隣にいられると思い出す.きみのサンタマリアノヴェッラの香水の,その色鮮やかなフリィジアの香りのせいで,僕は記憶の中に立ち止まる.

 

僕は何を言えるだろう.なぜかこうして横にいるきみに,今更何を言えばいい."綺麗になりましたね" だなんて,口先でも言える気がしない.だって,出会った日からきみはずっと綺麗なままだ.そんなきみに掛ける言葉として,綺麗になっただなんて,もちろん嘘ではないけれど,本当でもないだろう.

花園の香りを含んで,隣のきみからたばこの煙が流れてくる.そうだ.僕が変わったように,きみも変わった.何がきみを変えたのかは分からない.それが気にならないわけでもない.でもそんなことは,きみが確かに変わったという事実に比べれば,大したことじゃない.

何もなくても楽しかったあの夏に戻りたいとは思わない.思い返せば,あの夏にも,過ぎたどの夏にも,あるいは過去のどの季節にも,"何もなくてもただ楽しい時間"なんて存在しないんだ.忘却に美化された過去に縋って,いたずらな失望を重ねる追憶は趣味じゃない.それでも,きみの眼を見ると,純粋な季節の幻がそこに映っている気がしてならない.

 

きみはいつだって,いまだって,音楽のように綺麗だ.僕はいま音楽を愛するように,またきみを愛せるのかもしれない.だけど,そうすれば僕はまた見失うのだろう.きみを,自分を,サンタマリアノヴェッラの,フリィジアの香りの中で.