主義,という訳語について.主義という訳語があまりしっくりこない場面が多い.この語が使用される場面は主に二つあって,ひとつは principle の訳語として,もう一つは -ism の訳語としてだ.かたや単純な一般名詞であり,かたや接尾辞,ということ.このへんの意味的な揺れが,訳語のぎこちなさにつながっているような気もする.

例を挙げよう.polymorphism という語がある.意味はこの際関係ないが,ふつう,多態性などと訳される.morphism は圏論の言葉で,これは射と訳される.また例を挙げよう.プラトニズム,マゾヒズム,その他,’人名-ism’ の形の語がある.これはほとんど,接尾辞として'主義'を伴わない.そのままカタカナで起されるのが通例だ.さらに例を挙げよう.democracy は民主主義,と訳されるが,これについてはもはや 'ism' の影も形もない.単語の形式的な見地からは,当然,democracy は ism ではない.が,他の対概念語(socialism などの政治的立場)と意味上の対照をつけるために,いかにも 'ism' であるように訳されている.そしてこれが誤訳の誹りを受ける場面をみたことがない.さらにまた例を挙げよう.criticism という語は,ふつう批判,批評と訳される.これは日本語的な,すなわち 'principle' の訳語としての主義,とはかなり距離のある概念に思える.しかしこれも紛れもなく,ism であるらしい.

主義,という語の起源はかなり古く,紀元前1世紀の中華古典に初出を見るほど,じつに由緒正しい.当時から,’信じている一定の主張’という現在とほぼからわぬ意味で用いられていることも興味深い.主,義,という漢字のこの組み合わせには,何か必然性があるのだろう.という話は一旦置いておく.話を戻そう.

今興味があるのは,(poly)morphism, masochism, socialism, criticism などの語彙にともなう,-ism という接尾辞について,’主義’よりも妥当性が高い日本語を探すことだ.ここでいう妥当性の高い語とは,principle 的な’主義’の意味とは独立で,かつ,-ism が持つニュアンスを過不足なく表現し,またそのニュアンスをしか表現しないような性質を満たす語のことだとしよう.暇なとき,じっくり考えてみたいと思う.