スープを作る.スープを作ることにした.朝にだ.可能なら毎朝だが,まあ無理だろう.作りたい朝に作ることになりそうだが,そう言っているとなかなか興に乗らないもので,妻に対する非言語の詫び状として,すくなくとも向こう2ヶ月は続けていきたいと思う.

いちおう,そのための本も買った.この,買ってきた本の著者というのが,どうやら日本のスープ界ではひとかどの人物らしく,本の内容もすこぶるよい.まだ作ってもいないレシピ本の内容を作る前から絶賛するのは不誠実極まりないけれども,まあそれはおくとして,随所織り込まれたエッセイ風の短文に,こんにち彼女がスープ界でひとかどの人物となった,その経緯や背景が書かれている.その経緯や背景も,それらについての語り口も,とてもよい.生活の実感と,ものつくりに対しての深い主体性が感じられる.

こういうところで波長があうと,読者としても"よしこの人についてゆこう"とにわかに意気込むものだ.さて今夜は何を作ろうか.積んだレシピと睨めっこ.

ふいに危機がふってわいた.ふってわいたその危機,ないし,僕にはどうにも危機としか見えないものを,ふしぎな落ち着きと客観性をもって,僕はいま眺めている.

 

かつて,危機はもっと切羽詰まっていた.もっと切実で,悲痛で,主観的で,どこか綺麗だった.それは存在に関する危機で,自己同一性の危機だった.たぶん,綺麗に思えたのは危機そのものではない.それを取り巻く色々な状態や状況が,ほんとうに純粋だったから,その雑音の無さを当時の僕は,当事者なりに,綺麗だと思ったのだろう.

 

そして,祈りがあった.あの頃の危機はあまりにも純粋だったから,そこにはある種の聖性が宿っていた.その聖性というのは,たとえば,清貧などと言われるそれと同型のもので,単に倫理的であるというよりも,負の状態をたもつことでしか届かない祈りがあることをたましいの芯から信じる,そういうエッセネ派流のエリート主義的佇まいに宿るものだったと思う.いわば思弁的危機であり,観念的危機であり,宗教的危機だった.

 

では今の危機は.

この危機はどうだ.

僕の存在や自己同一性には微塵も抵触しない,それでいて確かな手触りと,温度を感じさせる,生きた危機.紛れもなく危機でありながら,具体的な解決策を伴う,時間的に対処可能で前進する危機.ああ,ともすればこれは,むしろ救いに近いのかもしれない.

癒しも施しも全て.何を癒しと呼び何を施しとするか.それを決めるのは,決めていいのは,ただ癒され,施されたその人だけで,他の誰でもない.すなわち,最初から癒しであるような効果はなく,また,最初から,ア・プリオリに施したりうる行為もない.僕が6月の朝日に癒されたとしても,6月の朝日は僕を癒すために窓辺を抜けるわけではない.僕が恋人から繰り返し口付けを施されたとしても,彼女の唇が最初から僕への施しとして色づいているわけではない.それでも,毎朝,毎夜,僕は透き通った朝日に癒され,柔らかな唇からの施しを享受する.僕は僕にとっての癒しや施しを好きに定義できる.だから,まだ見ぬ癒しも,まだ知らぬ施しも,それが僕に訪れるその瞬間まで,癒しでも施しでもない有様で,この世界に漠然と存在しているはずだ.そしてそんな漠然とした存在を絶え間なく期待し続けることができる今の自分と,自分が構築した自分にとっての世界,僕の情景の純粋な投影である限りのこの世界を,僕はとても喜ばしく思う.そしてそんな世界を生きることを許された自我,この認知の主体,感覚のあるじであることを,僕はとても幸福だと感じる.

待たせてごめん.きっとずっと僕が来るのを待っている.かつてのあなただったら今の姿を僕に見せたくないだろうなと思って,時世を言い訳に会わずにおこうと,ずっと思っていた.だけど,たぶんずっと僕を待っているんだろうね.心配ばかりかけたし,迷惑ばかりかけてしまって,結局,身を持ち崩しそうな僕のことしかまだあなたは知らないままだから,そしてそのことにあなたは全然納得していないのだろうから,だからまだ,そこから離れられないんだろうと思う.

僕は大丈夫.やるべきこともあるし,守るものもある.たくさんのものを失ったけど,たくさんのものを取り戻した.そろそろ取り戻し過ぎて,僕の両腕では抱えきれなくなるかもしれない.形容詞の定義にもよるけど,豊かに生きていけると思う.自分の能力を自覚した上で,時々賭けに出たり,挑戦したりしながら,刺激を選べる立場にもなった.だから僕はもう大丈夫.ダメな僕しか知らないあなたには信じられないかもしれないけれど,本当に大丈夫.

だからそのことを伝えにいかないと.大丈夫になった僕を見せにいかないと.安心してもらわないと.もう伝わらないかもしれないけど,両手いっぱいのありがとうとごめんねを,最後にきちんと言葉にしないと.きっと行くから,もう少しだけ待っていてね.すぐに行くから.もう少しだけ頑張ってね.

誰よりも賢くて,誰よりも誇り高くて,誰よりも怠惰で,誰よりも純粋なきみへ.きみの様子が変わってからもうずいぶんと経つものだから,そして,その間もずっと僕たちの関係は続いていたものだから,僕は最近,昔のきみを忘れそうになる.きみは昔からずっと今のようなきみだったかのような錯覚をしそうになる.それが怖い.僕にはそれが,耐え難いほどに怖い.全然違う2人の人物について,そのとても本質的で大切な区別を見失うのが怖い.僕はかつてのきみを忘れたくない.いつでもかつてのきみをたやすく思い出せるようでいたい.僕は待っている.そして待っていることを忘れたくない.きみを待っている自分を忘れたくない.だからここにも書いておく.僕は待っている.ずっと待っている.待っているから,いつかまた会おう.

ひとつのままならないたましいの,これは救済の物語だ.そのたましいは,他のあらゆるたましいと同じように,まるでなんの目的もなくこの世界に生じた.ただ他の多くのたましいたちと違ったのは,このたましいに限っては,本来たましいがそなえているはずの多くが欠落し,また同時に,多くを過剰に抱えていたことだった.これはそんな,あまたの過剰と欠落とのために,均衡をうしない,適応をあきらめたひとつのままならないたましいの,救済の物語だ.

たましいの救済とはつまるところ,救済を必要としなくなることだ.救済とはつねに外から与えられるもので,救済を必要としないような究極の救済とは,もはや外を,自己の外部を持たなくなることに等しい.それは世界に溶け込むことであり,世界と自己との区別を,すくなくとも自己の側からは,無くしてゆくことだ.

そのような定義に従うと,このままならないたましいにとって,究極の救済というのは原理的に不可能なものだった.このたましいはあまりにも足りず,あまりにも持て余していたので,その欠落と過剰のいちいちが,かたくなに世界との不和を際立たせていた.ところどころの歯が飛び出したり,ところどころえぐりすぎたりした歪な歯車のように,ことあるごとにそのたましいは,世界の秩序との不和をきたし,そのたびにいやおうなく,自己と自己ではないものを,内と外を,つよく意識した.歪な歯車は歪なまま回り続けて,ひび割れ,砕け,さらに歪になり,そして歪であるがゆえに,ほかのどんな歯車よりも歯車だった.歯車であることを忘れることができなかった.他のどんなたましいよりも,たましいであることを忘れることができなかった.

たましいであることを忘れることがたましいにとっての救済だとしたら,このたましいについてそれは途方もない不可能だった.調和に満ちた美しい世界と,そういう美しさとの不和を常に抱えた,じつにままならない自己とのあいだの深い差異を,このたましいはながいこと,ただぢっとみつめていた.世界の美しさに憧れて,それをぢっとみつめていた.

自分と違うものはすべて美しい.

いつしかこのたましいはそう気がついた.この不和は,すべて歪な自己と歪でない,美しい世界との間に生じるものだ.身体が軋むたびに,そこに生じる感覚は,たとえそれが痛みであろうとも,美の兆候だ.自身の過剰と欠落とを通して,痛みや悩みの中から,そのたましいは,世界の美しさを感覚することを,やがて覚えた.究極の救済から見放されたたましいは,こうして自我と美意識を獲得した.

ままならない,醜い自己だからこそ,調和に満ちた世界との不和を通して,世界の美しさをじかに感覚することができる.歪な歯車は身体に刻んだひび割れによって,自己の外側にある調和の存在を主張することができる.

僕は醜い.醜いからこそままならない.僕のような醜い存在が生きていくのはとても難儀だ.醜いものが生きにくいそんな世界は,つまり美しい.僕は醜いからこそ,僕を取り囲む,どこもかしこもまるで僕らしくないこの世界が,とても綺麗なことを知っている.知らざるを得なかった.でも,知れてよかった.昨日までと同じように,今日もこの世界は美しく,明日がやってくるならきっと,明日も世界は美しい.痛みを通してしか縋れない救いにしがみついて生きてきた.もう手放せない.だから,疼きとして生きていく.

いつしかそんなふうに自ら決めて,それ以来なにもかもを自ら決めることを選んだ,ままならないたましいの,僕の人生は,ひとつの救済の物語だ.

なんだかあわただしい.色んなものが一斉に動き出して,春を感じる.アスパラは美味しいし,色の濃い花は咲くし,日の出から日の入りまでの周期はずいぶん大回りになってきたし,コートが必要なタイミングも減ってきた.あとはサボっている歯医者と健康診断をなんとかしたら久しぶりの春らしい春ってことになるだろう.共同生活も始まるし,それを含めて,諸々の準備も始めなきゃいけない.疫病の方はどうなるだろう.みんなが健康に過ごせればいい.

去年の春は短かった.大きな仕事もすぐに終わったし,春丸ごとなんとなくうわついていた.今年の春はただただ,賑やかだ.うるさいのは嫌いだが,賑やかなのは好きだ.寂しいよりも賑やかな方がいい.悲しいよりも嬉しい方がいい.