ふいに危機がふってわいた.ふってわいたその危機,ないし,僕にはどうにも危機としか見えないものを,ふしぎな落ち着きと客観性をもって,僕はいま眺めている.

 

かつて,危機はもっと切羽詰まっていた.もっと切実で,悲痛で,主観的で,どこか綺麗だった.それは存在に関する危機で,自己同一性の危機だった.たぶん,綺麗に思えたのは危機そのものではない.それを取り巻く色々な状態や状況が,ほんとうに純粋だったから,その雑音の無さを当時の僕は,当事者なりに,綺麗だと思ったのだろう.

 

そして,祈りがあった.あの頃の危機はあまりにも純粋だったから,そこにはある種の聖性が宿っていた.その聖性というのは,たとえば,清貧などと言われるそれと同型のもので,単に倫理的であるというよりも,負の状態をたもつことでしか届かない祈りがあることをたましいの芯から信じる,そういうエッセネ派流のエリート主義的佇まいに宿るものだったと思う.いわば思弁的危機であり,観念的危機であり,宗教的危機だった.

 

では今の危機は.

この危機はどうだ.

僕の存在や自己同一性には微塵も抵触しない,それでいて確かな手触りと,温度を感じさせる,生きた危機.紛れもなく危機でありながら,具体的な解決策を伴う,時間的に対処可能で前進する危機.ああ,ともすればこれは,むしろ救いに近いのかもしれない.