癒しも施しも全て.何を癒しと呼び何を施しとするか.それを決めるのは,決めていいのは,ただ癒され,施されたその人だけで,他の誰でもない.すなわち,最初から癒しであるような効果はなく,また,最初から,ア・プリオリに施したりうる行為もない.僕が6月の朝日に癒されたとしても,6月の朝日は僕を癒すために窓辺を抜けるわけではない.僕が恋人から繰り返し口付けを施されたとしても,彼女の唇が最初から僕への施しとして色づいているわけではない.それでも,毎朝,毎夜,僕は透き通った朝日に癒され,柔らかな唇からの施しを享受する.僕は僕にとっての癒しや施しを好きに定義できる.だから,まだ見ぬ癒しも,まだ知らぬ施しも,それが僕に訪れるその瞬間まで,癒しでも施しでもない有様で,この世界に漠然と存在しているはずだ.そしてそんな漠然とした存在を絶え間なく期待し続けることができる今の自分と,自分が構築した自分にとっての世界,僕の情景の純粋な投影である限りのこの世界を,僕はとても喜ばしく思う.そしてそんな世界を生きることを許された自我,この認知の主体,感覚のあるじであることを,僕はとても幸福だと感じる.