聖書を読み返している.新約聖書だ.かつての僕は,ある種の神話集成として旧約聖書をよく読んだ.ところで,旧約聖書という言い回しがいかにもキリスト教めいていて気に食わない.もっと直接,ユダヤ聖書とでも言うべきだと個人的には思う.

と,まあ,その辺りの愚痴はいい.新約聖書の読み味は,やはりユダヤ聖書と比べるとずいぶん大味で,説教めいている.べき論が多いし,然るべく論点が整理されているのはよいものの,例えば各福音書間の主張の差異がどうしても気になる.それを矛盾として指弾するつもりはない.そんな無意味な情熱を今更持てるほど僕は時間を持て余してはいない.とはいえ,やはり気になるものは気になるので,副読書になりそうなものを本棚から数冊引っ張ってきて,そちらとも首っ引きになっている.

もともと聖書に関する僕の興味は,写本や時祷書などに関する書誌学的な側面と,聖人ごとのアトリビュート,各エピソードの元になった土着の伝説,あるいは姦淫聖書をはじめとする稀覯書としてのコレクションなど,あくまでも広く学術の素材としてのもので,信仰に立脚するものではなかった.

その理由は単純で,基底の定まらない解釈の沼に立ち入ることに怖気付いていたからだ.僕は聖書の内容をわかる範囲で分かった気になりたかっただけで,信仰の方へ,もっと言えば信者や信心の方へと踏み込むことをしなかった.文学や藝術を楽しむにしても,中近世までの古典なら聖書のテクストというよりはむしろエルサレムに端を発する教会文化の影響が強いだろうし,近代以降に関しても西洋のインテリ層に特有な宗教的実存の"匂い"をざっくり分かっていれば,まあそこそこ概ね楽しめるだろうとタカを括っていた.

実際,『薔薇の名前』からユイスマンスの三部作までキリスト教文学と呼ばれるものも楽しんだし,象徴主義詩人の作品や東方的な宗教藝術もとくに抵抗なく受け入れてきた.

とはいえ,だ.

やはりひっかかる.チボー家の人々を読んだ時の,あの感覚.カラマーゾフの兄弟を読んだ時のあの感覚.ノートルダムの鐘の執拗な描写や,ラテン的退廃から感じる強烈なヘレニズムの源泉.あるいはもっと深く,日常の言語表現や,生活インフラ,身振りなど,暗黙のうちにコード化されたキリスト教信仰を,僕は多く見逃しているのではないか.それはもはや各作品のテーマとしては提示されないほど自明な領域で,暮らしや思想に根づき,あらゆる場面で通奏低音のように流れているのではないか.

僕が逃げてきた聖書は,ウラル山脈よりもいっそう確然と西洋という領域を取り囲む鉄のカーテンであり,異邦人を拒絶する巨大なエネルギーだ.僕は聖書に怖気付いて,聖書を諦めていた.それでも,キリスト教聖書が現代文明に遍く価値観の中核であることは疑いない.言い訳せずに,粛々と読み進めるとする.

28歳にして再び人文学の泥沼に足元を掬われるとは思っていなかった.せめて沈まぬように慎重に進みたい.