真珠が真珠になるためには,核が必要だ.アコヤ貝の中には,もともとその体内に核を持つ個体も存在するが,そうした天然の核から生成されるのは,いわゆる宝飾品としての真珠ではない,文字通りの歪み真珠だ.宝飾品としての真珠の核は,人間によって球形に整形され,貝に埋め込まれる.貝はただ,その核を包むだけだ.だから,美しい真珠を求めるなら,まずよく仕上がった,美しい核が無くてはならない.

自分の中に核を求めて真珠の輪郭を歪めるような間違いを,人間はよく犯す.とくに,何かを生み出そうとする人間は,そうでない人の何倍も,この間違いを犯す.何度も何度も間違えて,あたりに散らばった歪な真珠を眺めながら,ある時,ふと気が付く.美しいものを作るための核は,自分の外から輸入しなくてはならない,ということに.

およそ藝術家にとって,モティーフと呼ばれるものの多くは,そういう,本質的に外部的なものだ.既に磨かれて,整形された核のようなものだ.内省と自意識だけから捻り出した歪み真珠の醜さと,それを生み出したあとの徒労を知っている藝術家は,決して自分の中にモティーフを見いだそうとはしない.それほど,おぞましいほどに醜いのだ,歪み真珠というものは.

いわゆる職人であれば,あるいは製作に関して外部的なモティーフは不要なのかもしれない.職人にとって,要求というのは自明なものだろうし,要求は大抵の場合外部的なものだからだ.

しかし,藝術家にはどうしてもモティーフが必要なのだ.むしろ,よいモティーフさえあればいい.だから藝術活動のほとんどは,モティーフの選定に費やされる.納得のいくモティーフさえ手に入れば,それを取り込んで,自分の内側から染み出す美意識で包んでゆけばいいだけだ.あとは来たるべき時を待って,首尾よく摘出すればいい.注いだ手間隙の分だけ,きっと美しい真珠になる.多くの藝術家にとって創作とはおそらく,そういうものだ.

藝術家にとってのモティーフは,それが外部的であれば何でもいい.概念でも,風景でも,獣でも,街並みでも,旋律でも薬品でも味覚でも何でもいい.美しいとさえ思えればそれでいい.たまたま僕にとって,それが君だったというだけの話だ.