大切な荷物を電車に置き忘れて,慌てふためいて,狼狽至極,すがる思いではるか遠方なる拾得物窓口まで取りにゆき,幸いにも手付かずのままだったそれを無事に回収,と安堵したのも束の間,すでに待合の予定は押しに押して,人を待たせる焦燥感に意味もなくあたふたし,冷や汗だか気温のせいだか,おそらくその両方が原因と思われる汗は止めどなく,そんな汗を拭うでもなく,拭うための手拭いでも持つでもなく,家に戻るが早いか靴のまま,膝立ちで畳をにじり進み,衣紋掛けから有り合いの帯と浴衣をひったくると,玄関にぶら下げてあった呉服屋の袋へ,帯紐でくくった雪駄を放り込み,襦袢に三尺にその他もろもろを鞄に詰め,自転車にまたがり,駅までの道を哀れな風のように駆け抜けて,たどり着いたのが見知った商業施設の男性トイレ,その個室に駆け込むと,取るも取り合わせず,京劇変面さながらの鮮やかな変わり身で襦袢を合わせ袂を合わせて帯紐で腰に三尺を留め,帯の手を片手に縦を縛ってぐるりと半身を切ったからには袖を引き襟を抜き筋を合わせて,個室に駆け込んで鏡もないまま着付けること実に約2分.さあようやく汗の次第を除けば準備は整ったと思った矢先,携帯の電池が尽きる.これでは連絡がつかない.血の気が引いた.

いつもの癖で持ち合わせていたタブレットがすべてを救った.これを駅の公共WiFiにつないでなんとか待ち合わせを遂げる.本来ならば額が割れる土下座をすべきところを,待合人が美人であったせいで思わず真っ先にそれを褒め,褒め始めたら止まらず結局謝り損ねたというので,ごめんなさい本当にすみませんでした.

見慣れた街並みは相変わらず雑然と流れた.人波は相変わらず雑然と溢れた.並木は虫の音と雨の気配とを絡めてざわめいていた.日曜の吉祥寺の駅前は今日とていかにも日曜の吉祥寺然として,用事のなさそうな青年や用事のなさそうな壮年や,用事の有無を問わず漠然と彷徨する老年の人間たちを,右に流したり左に流したりしていた.

予定していた通りに花火を買った.年ごと一人で意匠を凝らした冬の弔いをしてきたが,夏への供物をわざわざ買うのはこれがはじめてだった.葬送に値する季節として夏を過ごすのがはじめてだったからだと思う.この夏は,じつに惜しい夏だった.あらゆる意味で過剰に包装された花火を選びながら,ひそかに今年の夏を振り返っては,惜別の念を改めていた.

それから肉を食べた.とても純粋に肉を食べた.およそ,肉を食べる,以外のことをほとんどなにもせずに済む,良い意味で純粋な食事だった.酒を飲まずに済ませようと思ったはずだが,飲んだ.反射なので.

驟雨をやり過ごしてから,夏の虫と秋の虫の入り混じる声に巻かれつつ,公園へとくだる.芙蓉亭を過ぎ,路地を抜けると,すぐにも池があり,橋がかかり,夜だった.雲はまばら,空が大きく,湖面を弾く小雨の名残りが,遠慮がちな星明かりを波紋のさざなみに崩していた.橋をゆっくりと渡りながら,夏の終わりの匂いがしていた.

花火をするのに手ごろな場所をいつくか検討して,結果的にひらけた水辺に僕たちは陣取った.うるんだ土が街灯の明かりを照り返していた.人影,まばら.暗闇にてこずりながら,花火を取り出し,おぼつかない手つきで火をつける.すぐにかすか火薬の匂い.細く垂直に,薄煙が闇に筋を引く.そこからはすぐだった.手に持った棒の先端から,煙と炎がどばっと溢れた.花火はかすかに揺れながら吹き出す.花火とは,こんなに水のように,吹きこぼれるように溢れるものだっただろうか.記憶と照合しようとしたが,不毛さに気がついてやめた.流水のような手持ち花火はすぐに吹き果てた.あたりには僕たちの声のほかは,もうもうと,湿った紫煙がくすぶるばかりだった.

僕たちはそれから,線香花火に火をつけた.弾け,散らしながらぷるぷると揺れる火の滴は,夏の残滓のようだった.僕たちは写真を撮ったり,撮られたりして,ひとしきりはしゃいだあと,最後にお互いの手を照らすようにして,線香花火を寄せ合った.火の玉は途中幾度か融合したり,離れたりしながら,最後はふたつの線香花火の先端をひとつに溶接して,消えた.火薬の残り香と,水っぽい風と,煙.くっついた二股の線香花火.汗ばんだ浴衣.乾燥花の簪.くちなしの香りと綺麗な手.夏は過ぎた.