つぶさに観察していれば,いつか,答えと呼べそうな,正しい形容にたどり着けるのだろうか.僕は人間を理解することを,ある時期からほぼ完全に諦めていて,もちろん,僕自身も紛れもない人間なので,自分自身を理解することも諦めているのだけど,それでも,なんだか最近,僕にもきちんと理解できる人間がいるのではないかという気がしてきている.

理解という言葉はいかにもおぼろげでよくない.妥当な論理に基づく形式的な書き下しの意味論を把握することだけが '理解' でもないだろうし,かといって,あまりにも非自明な行間にあふれた解釈を理解と呼ぶのも憚られる.

人間が人間を理解する,という文が意味を成すためには,理解という言葉はどのように定義されるべきなのだろう.

僕は既成事実が欲しい.卑怯かもしれないけれど,欲しいものは欲しい.ただ,'僕はきみを理解している' という文を,真な事実として,胸を張って誰かに言ってみたい.