一人の狩人が,見知らぬ森の中,道を失って,日がな一日歩き続けた末,夕闇も迫った頃,とつぜんの雨に降られ,風はごうごうといきおいを増し,とにもかくにもこの風雨をしのぐため,一夜のねぐらをみつけなくてはと,重い瞼をたくましい腕でぬぐいながら,木々の間をさまよっていた,そんなある日のことです.

 

 風に吹かれる木立は怪物のように枝葉を振り乱し,足元はぬかるんで,油を塗った革靴に,濡れた泥土が重くまとわります.体はキンキンに冷えて,はあはあと息も上がってきました.季節はもう冬の初め,このままここで行き倒れたら,きっと心臓までカチカチに凍りついて,次の朝日は拝めぬことでしょう.しかし,恐ろしい睡魔はだんだんと首筋を這い上がってきていて,もう瞼の裏側にまで迫っています.くそ,眠い.ああ,いっそこのままここで膝を着き,額を土に埋めて眠りついてしまいたい.そうして訪れるだろう一瞬の休息は,きっとそのまま永遠の眠りへと狩人をいざなうことでしょう.

 

 しかし,この男,生き物を殺すことを生業としていながら,他の誰しもそうであうように,自らの死には非常に臆病で,敏感で,繊細だったものですから,なんとしても命ながらえようと必死に,こうして暗い森をあてどなく歩き続けているのです.迷ったことを自覚したのはまだ日が高い時分でしたから,もう少なくとも半日は動き詰めていることになります.そう思うと余計に疲労が増してきて,狩人はとうとう歩みを止めて,提げていた荷を下ろし,近くの木の根元へと重い腰を落ち着けました.木の幹に体をあずけて,狩人はうなだれました.目をつむれば,きっとあっさり眠ってしまうでことでしょう.そうなったら,一巻の終わりです.あくびのようなため息を必死に押し殺して,麻袋に入れた唐辛子を噛み締めます.辛い.目から火が出るほど辛い.眠気をごまかすのにはちょうどいい,炎のような辛さです.

 

 木にもたれたまま上を見上げると,木の葉から雫が垂れてきて,狩人の鼻先でぽつんと透明にはじけました.樹海に吹く風の音は獣の唸りのようで,容赦なく体を冷やします.いつ見ても,あたりは見渡すかぎりの植物,植物.ずっと変わらない森の景色は視界を深い緑に退屈させて,眠気に拍車を掛けます.たとえば今,体に鞭打って立ち上がり,再び歩き出したとしても,また延々とこの憂鬱な世界をさまようことになるのかと思うと,ズンズンと音を立てて気が滅入ってゆきます.歌でも,歌ってみるか.狩人はほんの気晴らしに,幼いころによく聴いた,故郷の歌を口ずさんでみました.なぜその歌だったのか,そもそもなぜ歌である必要があったのか,それは彼自身にもわかりません.ただ,記憶の底から湧き出す泉のように,旋律が,詩が,口から溢れ出てきたのです.風と水滴の音にまじって,それでも狩人は自分の歌声をはっきりと聞き取っていました.

 

 なんだ.何か聴こえる.狩人はふっと歌うのをやめて,耳を澄まします.疲れのせいでしょうか.いいえ,たしかにさっきから,同じ歌を歌う別の声が聞こえます.美しく品やかな女の歌声.それは嵐の森の雑音にまぎれて,小さく,細い声でした.しかし,狩人の耳にはしっかりと届いていました.誰かいる,俺の他にも,この森に.狩人は大切な荷袋も持たず,まるで餌に食いついた魚が見えない糸に引かれるように,ふらふらと立ち上がると,茂みをかき分けて,声のする方へとずんずん歩いてゆきました.彼が歌をやめてからも,女の声は歌い続けて,懐かしい旋律はどんどん大きく,明瞭になってゆきます.

 

やがて茂みを抜けると目の前がさっとひらけて,そこにあったのは苔むした瓦礫の山でした.なんだ,これは.近づいてよく見れば,瓦礫のほとんどは直線的に切られた白い大理石.その表面にはなにやら細かい彫刻が施されていて,地面には折れた柱が切り株のように並んでいます.それにしても,ものすごい量の瓦礫だ.きっと崩れる前は,かなり大きな建物だったことだろう.いったいここで,何が.そんなことに思い巡らしていた狩人は,女の声で我にかえります.歌声は,どうやら,この乱雑に積み上がった瓦礫の隙間から漏れているようでした.

 

 人だ.この中に,人がいる.狩人は濡れた苔に足を滑らせながらなんとか瓦礫の山の中腹にまでたどり着くと,わずかな石の間に顔をねじこんで,呼びかけました.

 

「そこで歌うのは,誰だ」

 

「あなたの歌を聴いたものです」

 

そう,返事がありました.

 

「俺も森でおまえの歌を聴いた.それを辿ってここまで来たのだ」

 

「よかった,聴こえていたのね.途中であなたの歌が止んだ時は,どうなることかと」

 

「ああ聴こえた.歌をやめたのは,おまえの声をよく聴くためだ」

 

石にしがみついたまま,男は答えます.

 

「嬉しい.わたし,どうか気がつきますようにって,祈りながら歌っていたの.さあ,外の嵐はまだ過ぎません.もはや廃墟とも呼べない瓦礫の下ですが,いっときならば雨風はしのげます.どうか,中へ」

 

 中へと言われても,時はもうすでに宵に差し掛かり,かすかな夕日を雨雲が遮るこの場所では,どこが入り口なのか見当もつきません.明かりを灯す油の入った荷物は置いてきてしまったし,そもそもこの雨では満足に火も熾せないでしょう.

 

「入りたい,しかし,扉の在り処が分からない」

 

「ここに扉はありません.どうかお手元の石をどかしていって,あなたの体一つ入る穴が出来たなら,そこが扉です」

 

 そう聞いて,狩人は残った力を振り絞り,石の隙間をこじ開けると,身をよじって瓦礫の山の中へと入り込みました.

 

 そうして入った瓦礫のなかは,石造りのほら穴のようでした.火の気配もないのにぼんやりと明るく,どこかから暖かな空気が流れ込んでいるかのようにぽかぽかとしています.天井は低く,すこし屈まなければなりませんが,なかなか広々とした空間です.そして不思議なことに,瓦礫の中は外の様子が嘘のようにしんと静まり返っています.しかし,何よりも奇妙なのは,その真ん中にぽつんと吊られた,一抱えもありそうな立派な鳥籠.しかも,その中で,絵にも描けぬような美しい白孔雀が一羽,格子の内からこちらを見つめているではありませんか.見回しても他に人影はおろか,虫の一匹たりとも生き物の気配はありません.おかしい.女は,どこだろう.

 

 狩人がキョロキョロと落ち着かない様子で地面に座り込むと,どこからともなく,さっき聞いた女の声がします.

 

「ようこそいらしてくださいました」

 

「どこだ」

 

「こちら」

 

 まさか.そう,そのまさかです.よおく孔雀を見てみれば,声の調子にぴったり合わせてその青いくちばしがせわしなく動いており,どうやら人の言葉を発しているようなのです.狩人は恐る恐る,鳥かごに向かって話しかけました.

 

「ここからおれを呼んだのはお前か,孔雀」

 

「はい,わたしです」

 

「歌っていたのはその声か,確かか」

 

 その言葉を聞くと,孔雀は大きく首を伸ばし,胸を膨らませて,歌を歌い始めました.その歌声は,嵐吹く森の中で呆然と聞いた女の声と,果たして,まったく同じものであるようでした.

 

「おお,この声だ.間違いない.疑ってすまなかった.なにしろ,人の言葉を話す孔雀を見るのはこれがはじめてでな」

 

「あら奇遇,わたしも人の言葉を話す人間を見るのは,これがはじめてなの」

 

その言葉が冗談なのか,本当なのか,狩人にはわかりません.なんだか,からかわれている気もします.

 

「ところで,何の用があっておれを呼んだのだ」

 

 座って濡れた靴を脱ぎながら,狩人が尋ねました.孔雀は首だけを左右にくるくるとまわしたあと,一呼吸おいて

 

「助けてほしいのです」

 

「おれにか」

 

「ほかに誰かいて?」

 

「いや,それもそうだが.しかし,荷の一つも持たない迷い人に,孔雀の何を助けろというのだ」

 

「今のあなたは,そうでしょうけど.では,普段は何をなさっているの?」

 

「狩人だ.日夜野を分け山を掻き,鳥や獣を追い回すことで口に糊している.今日も狩りの途中だった.よく太った鹿の群れを追っているうち,夢中になって狩場を外れ,道を失った.それから散々歩き回ったが,結局当て所も定まらぬまま,雨に降られ,風に吹かれ,死にかけて,もはやこれまでとも思ったが,淀んだ血潮をなんとか巡らせるために歌った歌が命綱になった.おまえの歌だ.耳を澄ませ,声を辿って,結ばれていたのがこの場所だ」

 

「素敵,狩人だなんて.すごく頼もしい」

 

 孔雀は白い羽毛を膨らませて,格子からはみ出して地面まで垂れる長い尾をゆっくりと振ります.それが喜びの表現だということは,狩人にもわかりました.

 

「籠の中からですが,わたし,今晩は心つくしのおもてなしをします.ですから,その代わり,お願いをひとつ頼まれてくれないかしら」

 

「頼みごとか.ふむ.もてなし,とやらがどんなもてなしか,返事はその次第によるな」

 

「まあ,そんなふうに言われたら張り切らなくちゃ」

 

 そう言った孔雀が白い枝垂り尾をさっと振ると,あら不思議,男の服がみるみる乾いていって,濡れていた上着からは洗い立ての石鹸の匂いが漂ってきます.膝の破れ口にはいつの間にか裏に布が当てられ,靴もおろしたてのように艶めいています.

 

「これは驚いた.魔術を使えるのか」

 

「ええ,この程度でしたら」

 

 孔雀がふたたび尾を振ると,豆のスープと麦パン,焼いた芋とトウモロコシ,それにたっぷりのバターが現れました.どれも出来たての温かさで,慌てて食べると舌を火傷するほどです.お腹が空いていたとはいえその味わいは素晴らしく,狩人はほとんど一日ぶりの食事を,孔雀との談笑を交えて楽しみました.殺生を生業に山奥で暮らす独り身で,こんなに素敵な食事はいつ以来だろう.狩人はうっとりそんなことを思っていました.

 

「ご満足頂けているかしら」

 

「いやはや,まったく楽しい.さっきまでの惨めな思いも,この時間で精算すれば釣りがたっぷりくるだろう」

 

「では,お願いの方は……

 

「なんなりと申し付けてくれ.力を尽くそう」

 

「ありがとうございます.ありがとうございます.わたしずっとこの日を待っていたの.お願いというのは,たったひとつ.この籠を開ける鍵を探して欲しいのです」

 

「鍵」

 

「そう,鍵です」

 

「鍵などなくとも,おれならこの場で力任せに壊してしまうこともできるぞ.なんの,これしきの鳥籠ごとき」

 

 そういうと狩人は太い腕で籠の格子をぐっと掴み,無闇に力を込めようとしました.すると,孔雀が慌ててたしなめます.

 

「やめて.それではだめなのです.この籠はある強力な魔法によって,わたしの体の一部となっているのです.これに力を加えれば,その痛みはじかにわたしの体を苦しめます.もし無理に壊したりなどしたら,わたしはその激痛に耐えかねて,きっと命尽きてしまう」

 

狩人は慌ててその両手を鳥かごから離しました.粗野な自分が嫌になります.

 

「魔法を解く手立ては,ないのか」

 

「その手立てこそ,鍵なのです.どこかに隠された鍵を見つけて,この大きな錠を外すことが出来れば,魔法は解かれ,わたしは籠の,いえ,檻の外に出られるのです」

 

「出て,どうするのだ」

 

「帰ります」

 

「どこへ」

 

「帰るべき場所へです.今のわたしには,その帰るべき場所すらわかりません.体だけでなく,記憶まで施錠されていて,こうなるまでの自分については,ほとんど何も思い出せないのです.だれが,どうしてわたしをここに封印したのかも,なぜ魔法が使えるのかも,何も,何もわからないのです」

 

「なるほど」

 

「だからとにかく,鍵を外したい.かつてそうであった自分を知るために.取り戻すために」

 

「話はわかった,協力する.おれはその錠にあう鍵を探そう.しかし探すとは言ったが,いったいどこを探せばいい.その様子では,鍵の在り処も見当がついていないのだろう」

 

「場所の見当はつきませんが,そう遠くではありません.魔法の錠と鍵はもともとふたつでひとつを成すもの.互いに遠く隔たれば,それぞれの魔力は弱まるはずです.しかし,ご覧の通り,錠は今なお強力な魔法でわたしを鎖して,ながらく弱まる気配はありません.ですから,これにぴたりと合う鍵も,ごくごくこの近くにあるはずなのです」

 

 それからというもの,狩人は生業である狩猟の方もそこそこに,瓦礫の下を寝床としながら,来る日も来る日も森へと入り,目で地を洗うように,形も知らぬ鍵を探し求めました.すぐに,数日がたちました.しかし,どれだけ探しても,鍵は一向に見当たりません.瓦礫のねぐらを中心に,円を描くように捜索範囲を広げていく作戦も,今日でもう八日目です.それでも,この狩人は決して諦めようとしませんでした.いえ,本当のところ,狩人にとって,もはや鍵のことなどどうでもよかったのです.もちろん,白い孔雀の境遇を哀れに思いもしますし,出来ることならあの鳥籠から出してやりたいという気持ちには微塵の嘘も混じっていません.ですが,もはやそういった真実は,狩人にとって肝心ではなくなっていたのです.

 

 一日の探索を終えて,狩人がねぐらへ戻ると,そこには出かける前と同じように,籠の中で孔雀が待っています.今日も成果はありません.それでも,孔雀は男を責めません.ただ,お疲れ様でした,と,狩人の努力をねぎらいます.枯れ草の茎を編んでこしらえた食卓の上には,毎日違う夕食の品が用意されていて,狩人は平らな瓦礫を椅子にして孔雀の籠に向き合うのです.帰りの挨拶の代わりに,いつも決まって狩人は,外の様子から報告します.孔雀は相槌をはさみながら狩人の声に耳を澄まして,時々長い尾をゆらりと揺らします.魔法が灯す薄明かりのなかで,朗らかな会話はどちらかが眠りにつくまでゆったりと続きます.そう,つまり,このつつましくも美しい交流の時間こそが,今や狩人の肝心だったというわけです.

 

 これまでも,帰る家はありました.まあ,家というほど立派なものでもありませんでしたが,それでも自分で木を切り,自分で建てた,自分の小屋です.しかしそこに,待つ人はありませんでした.そこは覚醒と,次の覚醒のあいだ,わずかに睡眠を取るためだけの,大きな木箱に他なりませんでした.確かに,男一人がただ暮らすためには瓦礫の下よりは幾分かましでしょう.それでも,瓦礫の下には自分を待つ人がいます.いえ,正しくは鳥ですが,とにかく自分の帰りを待ち,迎えてくれる者がいる.それがこの狩人は,嬉しくてたまらなかったのです.いつしか彼の目的は,鍵を探し出すことから,白孔雀の待つ瓦礫のねぐらへと帰り着くことに変わっていました.

 

 しかしまた,この変化は,あるよこしまな不安を男の胸に植え付けるものでもありました.それというのはもしも,いつの日か鍵が見つかってしまったら,この生活が終わってしまうのではないかという不安です.そうなったら,心の糧であるあの暖欒も,はかない蜃気楼となって森に消えてしまうのでしょう.鍵を探す暮らしを望むということはつまり,鍵の不在を望むことに他なりません.そしてそれが,あの孔雀の想いに相反する,本末転倒な,倒錯した願いだということにも,狩人は気がついています.必死に目を凝らして日がな鍵を探しながら,それでもいつも心のどこかでは,鍵なんて,そんなものは永遠に見つからなければいい.と,そう考えずにはおられないのでした.

 

 探索と帰宅を繰り返す,そんな日々がもうしばらく続いた,ある日のこと.いつものように戻ってきた狩人は,夕食の席で,これもいつも通り,白孔雀との会話を楽しんでいました.楽しんでいた,とは言うものの,しかし,どうも今日は話がはずむ感じがしません.なぜだろう.少し経って,狩人は違和感の正体に気がつきました.繰り返す日常のなかで,目新しいことも特に起こらず,お互いの過去についてもほとんど話し終えてしまったので,もう二人の間には話題らしい話題が残っていなかったのです.狩人はお世辞にも口の利く男ではありませんでしたし,孔雀は孔雀で過去の記憶を封じられています.そんな次第で,今日の会話はいつもよりどこかぎこちなく,ちぐはぐな印象を拭えません.何か話のタネがないかと思案を巡らせていた狩人の目に,ふと,孔雀の白く長い尾が映ります.これだ,と狩人は思わず指を鳴らしそうになりました.

 

「ところで,孔雀よ」

 

「はい」

 

「その長い尾は,俺の知るところが正しければ,扇のように開かれるものではないのか.もうここへ来てしばらく経つが,ついぞそのしだり尾が広がるところを見た覚えがない.どうだ,この機にひとつ,広げてみてはくれないか」

 

 すると孔雀はその白い首を切なげに振って,俯きがちに答えます.

 

「それが,出来ないのです」

 

「どうしてだ」

 

「痛むのです」

 

「痛む」

 

「はい.あなたがここへ来る前,誰に見せるでもなく,孤独のすさびに何度かこの尾を広げようとしたことがあります.でも,だめでした.背の筋にぐっと力を込めて尾を持ち上げるまではたやすいのですが,これを広げる段になると,籠の格子に羽が食い込んで,身を裂かれるような痛みが羽交いの裏を走ります」

 

「そうか,それは,気の毒なことだ.雪のように白いその飾り羽が広がれば,きっと綺麗だろうにな」

 

 狩人がそう言うと,孔雀はさっと顔をあげ,背中越しに自らの尾をじっと見つめました.

 

「これが広がれば,綺麗でしょうか」

 

「ああ,きっと月光にも似て,いままで野山に見たどの花よりも美しいことだろう」

 

 それを聞いた孔雀の青い瞳が,ゆっくりと白い瞼に覆われてゆきます.そして,閉じてゆく眼に呼応するように,長い尾がしなったままぐっと持ち上がって,鳥籠がかすかに揺れました.孔雀が何をしようとしているのか,狩人にはすぐ分かりました.

 

「おい,やめろ.無理に広げることはない.痛むのだろう,やめろ,やめろ」

 

「でも,あなたはきっと美しいと言ってくれました」

 

「言った.確かに言ったが,しかし」

 

「いいの」

 

 そう言った女の声を,突然ばさばさと舞い散った白さがヴェールのように包み込みます.舞い散ったそれは羽根,たくさんの羽根でした.真っ白な羽根は狩人の目の前を踊って,くるくると回りながら舞い落ちて,雪のように足元に積もりました.そんな景色の中心には,鳥籠の輪郭を大きくはみ出して,飾り羽をめいっぱい広げた白孔雀がいました.きっと痛みのせいでしょう.身体が小刻みに震えています.その振動が広げた羽の先にまで伝って,白い羽毛が逆立ってざわめきます.狩人は,言葉を失いました.孔雀の瞳は,依然,閉ざされたまま.

 

「なんということだ.これはまるで」

 

 天使じゃないか.この世のものとは思えないその美しさは,光輪を従えた純白な霊性のたたずまいです.座っていた狩人は思わず立膝をついて,胸の前に手を組みました.瞳を閉じて静かに苦悶する姿は神聖で,理性を飲み込む凄みがあります.

 

「いかがでしょう」

 

 痛ましくふるえるその声に,狩人ははっと我に返ります.

 

「ああ,いや,すまない,しかしあまりにも」

 

 胸が高鳴って,上手く言葉が出てきません.まるで魔法にかけられたかのよう.

 

「わたし,綺麗でしょうか」

 

「綺麗だ」

 

「嬉しい」

 

「ほんとうに綺麗だ,世界の美しさの頂点を眺めている思いだ.おまえは美しい」

 

「よかった.わたし,あなたに綺麗だって言ってほしくて」

 

孔雀の閉じた瞳から,淡い空色の涙がひと粒こぼれて,白い羽毛に吸い込まれてゆきました.

 

「綺麗だ,だからもうよせ.もういい.おまえは美しいのだ,たとえその飾り羽根がなくとも,じゅうぶんに」

 

「いいえ,このままでおります」

 

 孔雀はさらに大きく羽を広げて,それは低い天井を撫で,正面から狩人を包み込みそうなほどです.

 

「なぜだ,もうやめてくれ.堪えるその姿,痛ましくておれはもう見ていられない」

 

「いやです,わたしは戻りません.このまま羽をたためば,あちこち傷ついて,もう二度と広げることは出来ないでしょう.だったら.このまま,綺麗なままでいさせてください」

 

 狩人はいてもたってもいられず,駆け寄って,ひしと鳥籠を抱きしめました.

 

「孔雀よ,おれを見てくれ,たのむ」

 

「出来ません,目を開いたら,とても痛みに耐えられません」

 

 そう言う間にも,青い涙はとめどなくあふれています.孔雀は広げた羽を鳥籠を抱く男の方へとかぶせかけて,それはまるで抱擁のようでした.

 

「お願いだ,もうやめてくれ」

 

「やっと触ってくれた.籠にあなたの体温を感じます」

 

 この鳥籠が孔雀の体の一部になっていることを思い出して,狩人は籠を抱く腕の力を緩めました.

 

「すまない,失念していた.痛かったろう.ゆるしてくれ」

 

「やめないで.離さないで,どうかそのまま」

 

 言われるがまま,狩人は冷たい真鍮質の籠に頬を寄せ,強く抱きました.それでも,胸のわだかまりは消えません.この姿のままでいたら,孔雀の目はもう二度と自分を捉えない.暗黒の痛みに縛られたまま,男の微けき温もりだけを糧に,いつとも知れぬ死を待つだけ.それはただ籠に鎖された不自由よりもずっとずっと残酷に思われました.薄く開いた目の先に,頑丈な錠前が重々しくぶら下がっています.呪わしい魔法の錠.そうだ,鍵.やはり鍵を見つけなければ.この強情で破滅的な美意識を,どうにか解放してやらなければ.狩人は,いっときでも約束を疎かに,身勝手な幸せを願ったことを心から後悔しました.

 

 孔雀よ,おれはきっと使命を果たす.果たして,おまえを助け出す.そう心につぶやいて,抱擁を解こうとした,その時です.広がった尾の羽根のひとつが,きらりと不自然に光るのを,狩人は見ました.格子に顔を押し付けてよくよく見ると,整然と並んだ飾り羽根のなかにひとつ,明らかに他と違う,金属質のものが刺さっているではありませんか.妙に思って,慎重に籠のなかへ腕を差し伸べ,指先でつまみ取ると,それは先端に細工のある,大ぶりな銀の棒でした.

 

「どうしたの,ねえ,いまいったい何を」

 

 孔雀が目を閉じたまま,不安な様子で尋ねてきます.しかしその問いはもはや,狩人の耳には届いていません.大きな掌に横たわるそれを見て,狩人は固唾を飲みました.口の中がカラカラに乾いています.鍵.そう,彼が羽根の中からつかみ出したのは,いかにもあの錠前にお誂え向きな,たいそう立派な銀色の鍵だったのです.狩人は呼吸も忘れたまま,手にした鍵を錠の穴へと挿し込みました.錠を押さえて,そのまま右へ,ひと回し.がしゃん,という音と,硬い手応えがあって,錠は外れて落ちました.地面につもった白い羽根が,落ちた重たい錠を受け止めてふわりと浮つきます.次の瞬間,しゅうううと,勢いよく空気が抜けるような音とともに,目の前の鳥籠からまばゆい光が放たれました.驚いて尻餅をついた狩人の目は,光の強さに白くくらんで,意識も昏く遠のいてゆきます.

 

 それから,どのくらいの時間が経ったでしょう.白い闇が薄らいで,まず色が,それからものの輪郭が徐々に浮き彫りになってくるにつれて,狩人の目に馴染みのない光景が映し出されます.頭の上を覆っていた瓦礫の山はすっかり消え失せて,そこには荘厳な石造りの天井と,曲線のしなやかな柱,手をつく床は滑らかで,よく研磨された大理石のようです.そして,腰を抜かして立てない彼に優しく微笑み,手を差し伸べるのは,純白の羽衣を纏った乙女.美しさに,思わず見惚れます.しかしいったいこの女は

 

「だれだ」

 

「お忘れですか,わたしです」

 

「その声」

 

「はい」

 

 立ち上がるために握りしめた細い手の主の声は,瓦礫の下で聞いていた声とまったく同じものでした.狩人はなんとか身を起こし,手でパンパンと腰をはたくと,唖然としたまま,乙女の姿をまじまじと眺めました.

 

「おまえ,あの孔雀か」

 

「あら,今度は歌わなくても分かってくださるのね」

 

「からかうな」

 

「違うの,嬉しいだけ」

 

微笑みながらすっと白い手を狩人の胸に当てて,乙女は静かに,深く息を吐きます.

 

「孔雀の身に変じていました.わたし自身の意思と力で,長いこと.おかげで四肢の動かし方も,いまだにままなりません」

 

 と言いつつ,彼女は急に立ちくらんだかのようにふらりと体を投げ出して,狩人の胸板へとその額をあずけました.

 

「なんだ急に,どうしたのだ」

 

「ですから,体がままならないのです」

 

「そうか」

 

 しばしそのまま,お互いの鼓動と呼吸に耳を澄ます,静かな時間が流れます.狩人は受け止めた女の体をどうしたらいいか分からず,立ち尽くすしかありません.

 

「ここは」

 

「はい」

 

「ここはいったいどこだ」

 

 唐突な質問に,乙女はふっと笑って狩人の体を離れました.

 

「ここは,鎮守の神殿ですわ」

 

「ではなぜ,おれたちはここにいるのだ」

 

「あら,このところずうっとここでふたり,暮らしてきたではありませんか」

 

 そう言われて辺りを見回してみると,たしかに,樹々の様子や遠く透ける山々の形には見覚えがあります.ただ,かつて瓦礫の積み上がっていた場所に,忽然とこの神殿があらわれ出たかのようです.

 

「いや,そんなはずはない.おれは白い孔雀と」

 

「わたしのことでしょう」

 

「あ,いや,そうだ,おまえと,瓦礫の下に暮らしていたはずだ,そうだろう」

 

「あの瓦礫は,残骸なのです.もとはこの通り,この森を守り,治めるための神殿でした.ですからこうして,元どおりに」

 

「どうやって」

 

「毎晩の食事を作るのと一緒です,わたしの魔法を使って」

 

 そう言うと乙女は手のひらで虚空をひと撫でして,男の足元に豆のスープと麦のパンを出現させました.いつも通り,バターもあります.

 

「あなたのおかげで,すべてを思い出しました.何もかも,すべて」

 

「なにもかも」

 

「はい,わたしは昔,この神殿を司る巫女のひとりでした.天賦に恵まれたわたしは,当時から人一倍の魔力をもっていたのです.わたしの能力は重宝され,たくさんの愛に囲まれた,何不自由のない暮らしでした」

 

 そこまで言うと,乙女は悲しそうに目を伏せて,くるりと狩人に背を向けました.そのまま向こうへ歩いてゆく彼女の背中を,狩人がおぼつかない足取りで追いかけます.

 

「それなのに,なぜ」

 

「ただただ,愚かだったのです」

 

「愚か,とは」

 

「ある日,神聖な儀式の最中にもかかわらず,それまでの疲労とその場の退屈に耐えかねて,わたしは眠ってしまったのです.短い眠りでした.しかし,悪夢を見ました.恐ろしい悪夢です.夢の中で,わたしは無数の鳥たちに襲われていました.鋭いくちばしに体中を突き刺され,悲鳴をあげてもはばたきの音にかき消されてしまいます.どうにかして逃げ出そうと,夢の中で,わたしはあらゆる魔法を駆使しました.そして,誰かの悲鳴で目を覚ましたわたしが見たのは,強力な魔法を何度も受けて崩れかかった神殿と,恐怖で逃げ惑う人々の姿でした」

 

 乙女は背を向けたまま柱にもたれて,話し声には嗚咽がまじります.悲しむ乙女に狩人は何と声をかけていいのか分からず,その細い背中から目を逸らしました.

 

「すぐに,自分の魔力が暴走したのだと気がつきました.しかし,神殿の柱はすでに大きくひび割れ,傾き,天井も崩れ落ちる寸前です.とにかくみんなを助けなくては.わたしはとっさに,怯える人々を鳥の姿へと変身させました.翼を得た者たちはさっとその場を飛び立ち,逃げ去って,本格的な崩壊がはじまった時,ここに残っていたのはわたし一人でした.わたしは逃げませんでした.自らの罪の重さを思っては,そのまま,瓦礫の下敷きに死のうとしたのです」

 

「だが,幸いだった.おまえは生きているではないか」

 

「生き残ることが幸せとは,限らないでしょう?」

 

そうつぶやく乙女の声は,いつになく自嘲的です.狩人は黙るしかありません.

 

「瓦礫の下の暗闇で意識を取り戻したとき,わたしは不幸でした.底なしの不幸です.生き残ってしまった.鳥に変えた人々はもうきっと遠くへ飛び去って,元に戻してやることもできない.神殿もすっかり崩壊して,瓦礫の山に変わってしまった.この,浅はかで,愚かなわたしのせいで.わたしという,なんて罪深く,傲慢ないのち!  そしてわたしは鳥に変わる魔法を我が身にも降り注ぎ,身体の自由を鳥かごで,呪われた魔力と記憶を錠前で鎖し,その錠の鍵を飾り羽の中に,自力では決して見つけることの出来ない尾羽の中に封じたのです」

 

「なぜそんな」

 

「わたしにもわかりません.あの時はどろどろとした絶望に心を飲まれていましたから.ただ,もしかしたら,自分で自分を赦すことが出来ないから,誰かからの赦しを待つことにしたのかもしれない.誰もこない場所で誰かを待ち続ける苦しみを,罰として自分に課したつもりだったのかもしれない.ああもう,赦しだなんて.どうして.こんなこと,自分で言っていていやになる.本当に,つくづくわたしって」

 

「いい,やめろ」

 

ぶっきらぼうな狩人の声が,乙女の言葉を遮りました.

 

「それ以上,言わなくていい」

 

「はい.でも」

 

「おれでいいなら,おれは赦す」

 

それを聞くと,乙女は振り向きざま,狩人に駆け寄って,今度はしっかりとその体を抱きしめました.

 

「もしあの日,あなたの歌を聴かなかったら,わたしは瓦礫の下,鳥の姿のまま朽ち果ててゆく運命だったでしょう」

 

「おれも,あの時おまえの歌を聴かなかったら,きっとあの見知らぬ森で,孤独に凍え死んでいたことだろう」

 

「そして,あなたでなかったら.あなたの,愛する人の目に美しく映りたいと,そう願わなかったら,わたしはやはり,必死の運命を変えられなかった」

 

 狩人も,いかにも不慣れな様子ではありましたが,寄り添う乙女の柔らかな体を,見よう見まねで抱擁します.鳥籠を抱いた時とは違う,柔らかな人の温もりを,腕のなかに感じました.

 

「おまえが,白い孔雀があの飾り羽をいっぱいに広げたのを見て,おれは生まれて初めて美というものに圧倒された.間近に天使を見ていると,そう思った」

 

「あら,奇遇.わたしも瓦礫の下で最初に姿を見た時からずっと,あなたを天使と思っていますのよ」

 

 しかし,天使に見間違うた白孔雀の姿よりも,いまこうして腕に抱くおまえの方がずっと清らかで,美しく,愛おしい.そんなせりふを,狩人は,まだ言えずにいます.

 

ほどなくして,どこからともなく,神殿には鳥たちが集まってきました.