空気は浮き足立った.日差しからは冷めた匂いがした.景色の緑が少しずつ退色してゆく.冬へと向かう気配が,視界から夏の歓喜を漂白してゆく.これからしばらく,世界は寒気の透明へと向かって滑り落ちてゆく.

この国の人々は,このつかの間の時間をこぞって秋と呼びたがる.季節として区別したがる.なぜだろう.きっと,必要だったのだろう.実りの秋とも言う.実りがあるからには収穫もあるだろう.だって収穫のために実らせたのだ.太陽のエネルギーを可食な物質に変換するために,人々は人為を尽くしたのだ.それが大過なく報われれば,祝祭のひとつでもあるだろう.無いほうが不自然だ.祝祭の季節に名前をつけたくなる気持ちは,わかる.とてもよくわかる.

そしてきっと,祝祭の多くがそうでもあるように,秋もある種の葬送なのだと思う.どうしようもなく冬へと雪崩れてゆく空気をすぐ隣に感じながら,夏の名残りをかき集め,奉る.そうして夏の死を悼む.死を悼むためには,弔いの時間が必要であり,その時間はきっととても神聖で,神聖なものには名前が必要で,いわんや,神聖な時間に名前がついてしまうのは,とても自然なことだ.

思えば,多くの別離は特別な名前を持つ.卒業,破局,廃棄,死去,失楽園.人は名前のない別離に耐えられない.名前をつけなければ,いつまで経っても離れられない.何も終えられない.終わったことを認められない.終わりを認められないと,来たるべき次を,正面から受け止めることができない.別離はいつも何かの終わりだ.

秋も夏との別離の名前だ.別離のための時間の名前,そして弔いの儀式の名前でもある.終わった時間は名前を付けて,過去として抽象化しないと,思い出としてカプセル化しないと,腐って饐えて呪いになる.過去の呪いから逃れるために,過去から都合よく分離した現在を人々は生きる.夏に呪われないために,人々は秋を生きる.

そんな秋が来る.祝祭と葬送の季節が来る.色彩の夏と,透明な冬の狭間,冷たく滑り落ちてゆく世界の加速度を全身で受けながら,秋の公園まで,長袖の寝巻きでぶらぶらと歩く.