賢さなるものに実体を与えようとして間違える人々をずっと見てきた.賢さなんてなんの意味もない.それはただの性質に過ぎない.そこに意味を見出す解釈者がいて,それは初めて意味を持ち,その意味に対して価値がつく.賢さは通貨のようなものだ.いつも相対的だし,いつも需給の繊細なバランスの上に成立している,極めて高度な概念だ.通貨に実体はない.コインは通貨の価値を参照するための仮初のインターフェースであって,通貨の価値そのものではない.賢さも同じだ.賢さにとってのコインとはなんだろう.人は何をインターフェースとして賢さという概念の意味にアクセスするのだろう.やはり言葉だろうか.あるいは,広い意味で言葉と呼びうるすべての表現だろうか.