いびつな世界に生きている.世界のいびつさは,何の価値も背負わない.いびつなことは良いことでもないし,悪いことでもない.ただ,世界がいびつだ,という事実だけがある.pathological な世界だけがある.非線形で,離散的で,いたるところ非連続で,いたるところ微分不可能で,名前のない形に満ち溢れた,綺麗でも汚くもない,ただ,ひたすら,どこまでもいびつな世界に,僕たちは生きている.

僕たちはそれでも,意味を探す.意味を,価値を求める.この世界の,途方もないいびつさの中に,一滴の,一縷の,一片の,一粒の,透明な意味を探す.理解可能な断片を探す.それが,意味が,どこかにあるはずだと信じて,探す.探す.探して,探して,そして時折,見つける.あるいは,見出す.世界を覆う巨大ないびつさに対して,それは,ほんのわずかな,それでも白金よりなお貴重な,意味のかけら,理解の切れ端.ナイーブなプラトニズムの福音だ.

"わたしは事柄Pを知っている"

"わたしは事柄Pを理解している"

そんなふうに確信を持てるPなんて,この世界には幾つもない.いつだって知識は未熟で,理解には曖昧が付きまとう.それでも,僕はこの世界について,ほんのわずかだけ知っている.理解している.理性の指で触れられる真理がある.いつでも確認できる真理がある.その真理を手すりにして,握りしめて,もたれかかって,生きて,暮らして,考えている.そんな真理,僕が伸ばす手の,中指の先でかすか届く真理は,どうしてかいつも,数学の形をしている.なぜかどれも,論理で出来ている.そしてそれに,真理に触れるとき,心の指先が感じる冴え冴えした冷たさを,僕は仮に,美,と呼んでいる.