「なあ,このところ絶望について考えているんだ」

「そうか」

「君は絶望について考えたことはあるかい?」

「無いね」

「一切か?」

「一切だ,かつて,これまで,断じて」

「言い切ったな」

「言い切るさ」

「どうして言い切れる?」

「どうしてって,絶望は思考の対象ではないからだよ」

「というと?」

「絶望というのは,ある種の状態のことだろう?」

「続けて」

「いわゆる希望がまるでない状態とか」

「いわゆる不幸にまみれた状態とか,まあその辺りは言い様だな」

「言い様だ.で,そういう状態っていうのは,一般的にそれ自体として思考の対象になることはないだろう?」

「そうかな」

「そうだと信じているから,さっき僕はきっぱりと,絶望に関する思考の経験を否定したんだ」

「そうだと信じていないから,僕はまだいかにも訝しげな顔で君を見ているんだ」

「ではこうしよう,犬について考えてみようじゃないか」

「いやだ」

「うるさい」

「犬ね,犬.今考えているよ.犬にまつわるあれこれを」

「じゃあ今度は絶望について考えてくれ」

「そう言われると,犬とはこう,勝手が違って……難しいな」

「難しいさ.絶望について考えるのは,犬について考えるよりはるかに難しい.その難しさは,僕には原理的な不可能に見える」

「ふぅむ」

「絶望には実態がないんだよ.実体も実態もない」

どっちがどっちだ」

「順不同だ.好きに解釈してくれ」

「ジッタイか」

「そう.それらしい言葉ではあるけど,要するに絶望っていうのは気分の一種だろう」

「まあ,そうだね」

「喜びや悲しみと一緒さ.それは主観的経験としての状態,そしてその状態の傾向につけられた名前にすぎない」

「なるほどね……ところで」

「ん?」

「僕にはどうにも,今のこのやりとりが」

「僕らのかい?」

「当然だろう.今のこの,僕らの,やりとりが僕には,絶望に関する思考の産物に思えてならないのだけど」

「かたや,僕にはどうしてもそうは思われないのだ」

「聞こうじゃないか」

「言っただろう,絶望とかいう状態は,それ自体としては思考の対象にならないと」

「聞いていたよ」

「今も続いているこの会話の主題は,絶望それ自体じゃないだろう?」

「じゃあ,なんだっていうんだ」

「絶望という言葉についてだよ,僕らはずっと,絶望という言葉,単語,その意味について話している」

「あるいはもうしばらく話そうとしている」

「かたや,僕にはどうしてもそうは思われないのだ」

「話を変えるかい?」

「可能なら.可能な限り速やかに」

「では,話題を変えよう」

「歓迎する」

「このところ,絶望という言葉,単語,その意味について考えているんだけどね……」