その夜,空は高々と濃紺だった.ふだんよりずっと低く大きな月があたりの星光を淡くして,月光をふくんだ薄雲を千切りながら,海風が黒々とした波を囃していた.月明るく,ごうごうと風は鳴り,渚に波頭が崩れる音もあたりにざあと響くのに,どうしてか,目にも耳にも,その夜はやけに静かに感じられた.

 

月はゆるりと夜空をくだり,くっきりとした円周を勇んだ波に舐められながら,やがてその身を海に浸した.すると,光は帯となる.太陽の気配を白く反射した月光は,とろりと海面に溶け出し,そのままつーっとまっすぐに伸びて,眼下の浜辺にまで届いた.黄金の川のようだと思った.そしてまた,白銀の橋のようだとも思った.

 

川にせよ,橋にせよ,いずれにせよ,月から海をわたして浜辺へと伸びた光の帯は,つよく彼岸を予感させた.渡れそうだった.どこかへ繋がっている気がした.光の上はたしかに人の足取りを受け止めて沈めず,光の下は海底まで個体として凝結し,光の先には光が隠す何かがある.きっとある.そう思った.光はいつも,闇よりも多くを隠すからだ.だからあらゆる謎は輝いている.

 

それは空虚な旅の夜のことだった.空虚を持て余して,海辺のホテルのバルコニーで身を乗り出したとき,そこには海と月しかなかった.あまりにも水と光しかないものだから,つい何かを探した.しかし探せば探すほど,そこには水と光以外,何もなかった.何一つなかった.何一つなかったということだけが,あの間延びした旅の,たったひとつ鮮やかな記憶になっている.