石を吸う
「あ,カモメ」
彼がそう言って指差した先.青空の中,真っ白な鳥が数羽,夏の海風を受けて踊っていた.
「カモメ……ですね」
そう返事したわたしは,空も鳥も見ていなかった.すっと夏の空に突き刺さった,彼の細いひとさし指をだけ,見ていた.
彼は空の青を拭うように指をおろして,そのままわたしの手に絡めた.わたしはそれを軽く握り返す.蝉の声がする.
「そろそろですか?」
「はい,もうすぐです」
わたしは恋人と一緒に,祖父母の家へと続くゆるやかな坂道を登っている.もっと便利な道もあったが,選ばなかった.この道なら,どこからでも海が見える.わたしはこの晴れた海を背景に,歩く彼の姿を見てみたかった.
手首を伝った汗が,絡めた指の間に染み込むのを感じた.わたしはさっと手を離す.ちょうど,見覚えのある屋根が目に入った.離した右手で,今度はわたしが指をさす.
「あ,あれです.緑色の」
「おや,素敵な色ですね」
「そうでしょう.亡くなる前の年にね,おじいちゃんが塗り直したの」
わたしは少し早足に門の前までやってきた.エメラルド色の屋根と,白い漆喰の壁.庭の芝生.最後にここへ来たとき,まだ大学生だった.3年ぶりだ.何も変わらない.彼が追いつくまでの数秒間,わたしはぢっと家を眺めた.
かちゃん,と音がして,すると,二階の窓が開いた.
「いらっしゃい」
窓辺から祖母が笑いかけていた.
「待っていてちょうだい」
それから,小さく,ゆっくりと階段を降りる規則的な音がして,やんで,すぐに玄関の扉が開く.祖母はわたしを見るなり名前を呼んで両手を広げた.
「おばあちゃん!」
駆け寄って祖母を抱きしめる.
「よくきたね」
髪からも服からも,前回会ったときとまったく同じかおりがした.変わらない.祖母の匂いだ.
「そうそう」
わたしは祖母の肩を抱いたまま庭の方へ向き直る.
「紹介するね.こちらがわたしのおばあちゃん」
「はじめまして,お目にかかれて嬉しいです」
彼は祖母の目を見て微笑んだあと,胸に手を当ててゆっくりと会釈をした.
「それで彼が」
わたしが言い終わるのを待たずに,祖母は彼に歩み寄って,抱きしめた.彼は一瞬驚いた顔をしただけで,すぐに祖母の小さな背中にやわらかく腕を回した.
「ようこそ.いつもありがとう」
彼の顔を見上げて祖母が笑う.
「とんでもない,こちらこそ」
彼も笑顔で応える.
「ほら,ふたりとも」
わたしが片方ずつ二人の手を取って,三人は屋敷の中へ入った.
西から風が吹く.抱擁のあとの庭で,間延びした夏の夕方は,潮風と夏草の気配にざわめいた.
夕食,祖母の手料理は相変わらず絶品だった.ふわふわに炊いたタコ.素揚げした夏野菜の出汁浸し.鶏肉の香草焼きは皮がパリパリで食感が楽しい.彼はほとんど一口ごとに,表現の限りを尽くしてその出来栄えを絶賛する.祖母も満更でもなさそうだ.わたしは久しぶりの味を噛みしめながらも,折を見ては,食器を扱う彼の手つきや,その満足気な表情を眺めた.それから,わたしと祖母が取り止めもない思い出話に興じるのを,彼はニコニコと聞いていた.思い出話の中心は,やはり祖父のことだった.祖父の不在は,何も変わらないように思えるこの空間でほとんど唯一の,どうしようもない変化だった.何気ない会話の中に祖父が登場するたび,祖母はうれしそうに「そういえばあの人ったらね」と続けた.そしてその口ぶりの端々にうかがえる寂しさに,わたしの胸は詰まった.
「ねえ,わたしたち,今日どこで寝ればいい?」
食後,祖母の淹れてくれた紅茶を飲みながらわたしは尋ねた.
「おとうさんの部屋を使ってちょうだい.片付けてあるから」
洗ったばかりの食器を棚に戻しながら,祖母が応える.彼女は実子であるわたしの父を名前で呼ぶ.ここでいう"おとうさん"というのは,つまり祖父のことだ.
「……わかった,ありがとう」
そう返事したものの,"おとうさんの部屋" という響きに,わたしは強い違和感があった.祖父との思い出は少なくない.この家にも昔から,長い休みのたびに遊びに来ていた.こちらにいる間、わたしはずっと祖父と一緒にいた.祖父の仕事について行ったこともある.たくさん遊んで、たくさん話した.それなのに,わたしは祖父の部屋に入った記憶がない.どころか,祖父の部屋というものが存在することさえ知らなかった.そしてなぜか,そのことを祖母に尋ねるのは気が引けた.
祖父の部屋の存在は知らなかったが,しかし,心当たりがないわけでもなかった.この屋敷の,二階の奥の角の部屋.わたしはその部屋に,一度も入ったことがない.もちろん入ろうとしたことはある.ただ,入れなかった.こっそり忍び込もうにも,そこだけはいつも鍵がかかっていた.あの部屋から人や物が出入りするのを見たこともない.てっきり倉庫か何かだと思っていたが,もしかしてあそこが,祖母の言う"おとうさんの部屋"なのだろうか.食事を終えてシャワーを浴びている間にも,そんな疑問が浮かんでは消えた.
「これ,渡しておきますからね」
廊下.浴室からあがって濡れた髪を拭いていたわたしに,寝支度を終えた祖母が手渡したのは,小さな鍵だった.
「あ,ありがとう」
鍵.なるほど,どうやら"おとうさんの部屋"というのは,施錠されていたあの部屋で間違いないらしい.この屋敷で鍵穴のある扉は,水回りを除いてたぶん,あそこだけだ.
「ねえ,おばあちゃん」
「なあに?」
「ううん,おやすみ.今日は色々ありがとう」
「いいのよ.それじゃあね」
祖母はわたしをそっと抱きしめてから,自身の寝室に戻っていった.残されたわたしは,まだ濡れた髪を拭きながら,常夜灯の薄明かりの下,手渡された鍵を見つめた.至って普通の鍵だ.年季を感じさせる造作だが,取り立てた特徴はない.ふと玄関の方を見ると,広間の明かりが廊下に漏れている.
広間.先に入浴を終えた彼は半乾きの髪を下ろして,ソファに寝そべっていた.寝巻きに着替えて,仰向けに本を読んでいる.
「何を持ってきたんですか,今日は」
肩越しに彼の胸元に腕を絡めて,わたしは耳元で尋ねた.
「ああ,おかえり.これですか?経済学の論文です」
「へえ」
わたしの反応を見透かして,彼はすぐ話を補う.
「友人の学位論文なんですよ.この前献本されてね.次会う時に何か気の利いた感想を,と思って読んでいますけど」
彼は読んでいた本を胸に抱いて苦笑した.
「ダメですね,ぜんぜん分からない」
「そうなの?意外」
「意外.何がです?」
彼の手がゆっくりと伸びてきて,わたしの頬に触れた.その手の甲に,わたしは自分の手のひらを重ねる.
「あなたにも分からないことがあるのね」
薬指の先で彼の唇に触れる.
「分からないことばかりです」
目を瞑ったまま彼は答える.
「なんでも知っているくせに」
手でそっと片耳を包むと,彼はふっと息をつき
「知っていることしか知りませんよ」
と言って目を開けた.上目遣いにこちらを見上げる彼の,そのすこしだらしのない表情から,わたしは咄嗟に目を背けた.まだ,慣れない.
「さあ,寝ましょ.さっき寝室の鍵をあずかったんです」
「ほお,鍵とはまた」
「そうなの.おじいちゃんの部屋の鍵.実はわたしも入ったことないんです,あの部屋」
「それは楽しみだ.では,エスコートしてください」
わたしは差し出された手を取って,背中から,一段先に階段を登り,そのまま彼を角の部屋の前まで案内した.見慣れた扉に触れてみると,硬い木材の質感が,やけに冷たかった.
「ここ……のはずです」
「なるほど」
握りしめていた鍵を,少し手こずりつつ鍵穴に挿し込む.カチ,カチ,という細かい音.鍵を捻ると,カン,と音がして,指先に解錠の感覚があった.ふうっと息をつく.すこし緊張していた.ドアノブをつかんで,扉を押し開く.
まず,明るかった.電灯ではない.月光だった.大きな天窓からそそぐ月の光が室内を満たしている.そして,広い.二階のほぼ半分を占めるのだから,当然といえば当然だ.しかし,それにしても.
「本,こんなに……それと」
「なんでしょうね.地球儀かな.色々な種類がありますね」
青いもの.凹凸のついたもの.ガラス製の小さなもの.外国語で書かれたもの.古めかしいもの.
「ねえこれは?」
ひときわ濃い背景色に,星座だろうか.白抜きで直線的なグラフが書き込まれている.その隣には,月を模したものまである.
「天球儀というやつですね,黄道を円周とした,可測宇宙の写し絵ですよ.そっちは,月球儀とでも言うのでしょうか.珍しいな.初めて見ます」
彼はかがみ込んで,指先でくるくると月の模型を回転させた.
天窓から直射日光の当たらない壁の2面は,すべて本で埋め尽くされていた.あの一角は小説だろうか.ぼんやりと背表紙を見る限り,星や宇宙に関するものが多い.高度な理論書もかなりある.床には先ほど見た天体の模型が大小様々十種類ほど,几帳面に並んでいる.ベッドの横の棚には数枚の天体写真,人工衛星の模型.その横に,ベルトを外した機械式腕時計が整然と並ぶ.これも,両手では足りない数だ.
「この望遠鏡も立派だ.とても宇宙がお好きだったんですね,きみのおじいさまは」
彼の声を虚しく感じた.
「ええ,どうやら」
わたしは月光に立ちすくんでいた.宇宙?まさか.ここはどこ.この部屋の主は,いったい誰なの.だって,これはまるで,夢見がちで内気な少年の部屋だ.わたしのおじいちゃんは,よく日に焼けて,快活に笑う人.いつでも半袖で,冬でもサンダルで,腕時計なんてしない.写真とお酒とおばあちゃんが大好きで,新聞とネクタイが嫌い.この部屋の有り様はそんな,わたしの思い出に息づく祖父の印象からは,とても想像できないものだった.
「ベッドも広いですね.ゆっくり眠れそうです,ありがたい」
「ええ」
返事もそぞろになる.
彼がぽんとベッドに腰掛けると,薄く舞った埃が月光にきらめいた.その時,ふわりと懐かしい匂いがした.彼に続いて,わたしはベッドに身を投げ出した.マットレスに顔を押し付けて,深く鼻から息を吸う.忘れもしない.祖父の匂いだ.そうか,やっぱりここはおじいちゃんの部屋なんだ.そう思うと,にわかに目元が熱を帯びた.
「何か,思い出しましたか」
彼の指がうつ伏せたわたしの髪を梳く.
「本当に,大好きだったの.なのにわたし,何も知らなくて,なんだか」
色々な話をしてくれた.たくさん写真を撮ってくれた.お父さんより少し高い肩車.短いメロディを繰り返す上手な口笛.思い出はたくさん溢れるのに,祖父自身のことを何も知らない自分が悔しかった.この部屋の様子にうろたえた自分が情けなかった.そしてなにより,もう祖父に会えないということが,いまさら,どうしようもなく悲しかった.
彼は何も言わずにわたしの頭を撫でている.すぐに涙が鼻に詰まって,祖父の匂いをかき消した.ああ,早く泣き止まないと.わたしの涙が止まるまで,彼はわたしの髪からきっと,手が離せない.
「おや……」
わたしを撫でる手の動きがはたと止んだ.
「するとやはり……」
彼の独り言が続く.
「どうしたんですか?」
鼻声が恥ずかしい.
「ああ,ごめんなさい.ただ,ちょっと気になって」
彼は立ち上がって机の方へ向かった.音を立てないように椅子を除けると,机の隅,ランプの下に置かれた透明な小函を手に取った.見たところ,ガラス製のオルゴールにも似ている.
「ふむ」
彼はうなづいたり,独りごちたりしながら,天窓から注ぐ月光に函を透かしてなにやら観察している.天上の光に向けて一心不乱に両手をかかげる彼の姿は,どこか神聖だった.
「やっぱりだ.すごい」
彼の声は少年のように弾んでいた.わたしもベッドから身を乗り出す.
「ねえ,それって」
「おや,きみもこれがわかりますか?」
「ううん,ちっとも.なにかいいもの?」
「ええ,とてもいいものですよ.素晴らしい.きみのおじいさまはやはり大変な趣味人だったようだ」
彼はさっき除けた椅子に腰掛けて脚を組んだ.肘掛に左手で頬杖をつきながら,右手に掲げた小函へ熱視線を投げかけている.わたしはベッドを降りて,床に立て膝のまま,彼の脚に上体をあずけた.
「ふうん.それで,結局それはなんなの?」
「ラジオですよ.鉱石ラジオ.ラジオの中でも,検波器に鉱石を用いて復調を施すものをそう呼びます.機構が非常に簡素で,無電源でも動作するのが特徴なのですが」
彼はわたしの顔の前で小函の上蓋を外し,中を月光の下に晒して見せた.月光に結晶し,標本にされた夏の夜空が輝いていた.
「すごい.これ,宝石……」
その周囲には束ねた白糸と,乳白色の薄片を従えている.
「アメジストです.紫水晶.ふつう,検波器に用いられる鉱石ではない」
「そうなの?」
「ええ,アメジストに限らず,こういうふうに透き通った鉱物が検波器に用いられることは非常に稀です.というのも,検波器として作用するにはまず,その物体が電気をよく通さなくてはいけません.つまり,自由電子が必要です.自由電子はほとんどの可視光線を反射するので,物体は金属光沢と呼ばれる特徴的な光沢を帯びます.要するに,検波器には金属質な鉱石が好まれるわけですが」
わたしはしげしげと小函に収められた鉱石を見つめた.細い針金で固定された,深く,紫色に透き通った天然石.その表面は艶めいて月光を照り返すが,金属光沢という語から連想されるものとは明らかに反射の性質が異なることは,わたしにもわかった.
「じゃあどうして」
「ふふ,気になりますか」
彼が横目にわたしを見て,いたずらっぽく微笑む.
「ほら,よく見てください.アメジストの中,何か見えませんか」
わたしは自分の影が月明かりを遮らないように注意して,目一杯顔を小函に近づけた.徐々に焦点が定まる.すると,気が付く.何か,小さな塊,ほぼ完璧な立方体が,アメジストの中心に埋め込まれているのが見える.
「見えます.これは何?」
「ビスマス鉱でしょう.結晶の形からの推測ですが,おそらく人工物です.タングステン精製の副産物かな.とにかく,これが核ですよ」
「核……」
要領を得ないわたしの表情を見透かして,彼は説明を続ける.口調は少し早く,語気は溌剌として,言葉に熱がこもっている.
「もともと,このラジオに備えられていた検波器は,その小さなビスマス鉱だったんです.水晶のような絶縁体と違って,こちらはよく電気を通す.このままでは見難いですが,金属光沢もあります.検波回路に組み込むのには好適です.妥当な選択肢と言えるでしょう」
「へえ.そうなの」
わたしのぼんやりした相槌にも,彼は嬉しそうに説明を続ける.
「そうなんです.そしてこのアメジストは,ビスマス鉱を核として,電波によって再帰的に自己複製しながら結晶を形成したんです.ラジオの大きさから見積もっても,おそらくこれで限界に近い大きさでしょう.それにしても……見事な結晶だ」
美しい.彼はそう呟いてうっとりとため息をついた.
美しいことは,理解した.わたしもこのアメジストを見て美しいと思う.しかし,わたしの常識ではアメジストは,いや,一般に鉱石とは,そんなふうに形作られるものではない.彼の語る手続き.核となる鉱石と,核を包み込むように層を重ねて成長する別の鉱石.そんな様子を空想に思い描いてみた.すると,ふと,見覚えのある映像が浮かんだ.
「真珠みたい」
ぽつり,そう呟いた.それを聞いて,彼がハッとしたようにわたしを見る.何かまずいことを言っただろうか.
「そう,そう,その通りだよ.君は素晴らしい」
満面の笑顔にほっとする.片手でわたしの肩をぐっと抱き寄せて,彼の視線は再びガラスの小箱に戻った.
「まさにね,鉱石ラジオというのは真珠貝なんです」
彼はガラスの小箱を机に置くと,器用に中の針金をほどいて,アメジストを取り出した.彼の手のひらの上で見ると,妖しく月夜を吸った紫水晶はもはや鉱石でなく,紛れもない宝石だった.真珠の収穫のようだ,とわたしは思った.
「歴史的に,鉱石ラジオの時代,というのは存在しません.真空管ラジオの方が出自が早いので,鉱石ラジオは後発ながら全体的な性能に劣ります.ただ,その機構の美しさと無電源の神秘性に惹かれた好事家によって,最初は愛好されていました.今でも,工学的教材として意義深いものです」
「最初は?」
「はい.最初は.つまり,ある時期から別な用途が発見されました.それが先ほど君が指摘した,真珠的,真珠貝的用途です.ある条件下で構成した鉱石ラジオで電波を復調し続けると,検波器に用いた鉱物の周りに別な鉱物が結晶することが分かったんです」
その条件とはすなわち,
・函は各辺が6cm以下の直方体.素材はガラス,特にソーダ灰を原料とするものに限る
・コイルには二重絹巻きの銅線を用いる
・コンデンサには天然の白雲母に錫箔を貼ったものを用いる
・高温多湿,あるいは結露や霜の惧れのある低温を避け……
・………
次々と条件を挙げてゆく彼の口ぶりは淀みない.誦じているようだ.ほら,あなたはやっぱりなんでも知っている.
「そしてこれは,」
彼は続ける.わたしは黙って相槌を打つ.薄明かりに白んだ横顔.天窓を抜ける晴れ切った夜空は,たまゆらにも月を隠さない.
「このラジオは,その条件をすべて満たしている.明らかに,結晶の形成を意図した設計です.さて,真珠貝と鉱石ラジオの共通点は,その仕組みだけではありません.存在形式そのものが共通しているんです.その意味でも,実にいい比喩だ,君はすごいですね」
「ふふ,すごいでしょう」
「ええ,すごいです」
わたしは得意になった.なぜ,何を褒められているかは,よく理解していなかった.それでも,彼に褒められるたび,わたしは祝福される.理由はなんでもいい.きっと,なくてもいい.
「貝,核,真珠.この中で人は,真珠だけに興味があるんです.真珠貝も,その核も,人間の関心の外で,ただ真珠のためだけに存在している.鉱石ラジオも一緒です.当時,人々の関心はラジオや検波鉱石にではなく,ただこの結晶にだけ向けられました.より正確には,この結晶の,ある作用にです」
そう言うと,彼は函の上蓋を取り上げて,そこからカチカチッと何かを外した.
「最初にこの方法を発見したのは某公国の医師だったと言われていますが,真偽は不明です」
透明な管が三本,彼の手に握られていた.それぞれを手際良く嵌め込み,連結させてゆく.出来上がったのは,細いストローにも,太く長い針にも見えた.
「いいですか,よく見ていて」
彼はその管を摘んで,その先端で,手のひらに載せたアメジストを,コツン,と叩いた.
キィィン.急な耳鳴り.身体がこわばる.違った.彼の手の上からだ.高く細い,叫びのような.この音はアメジストが発している.見ると,アメジストの結晶は,彼の手のひらで微かにふるえながら,少しずつ,ひとりでに砕けてゆく.反響と自壊.すぐに,鉱石の結晶は跡形もなくなった.ぴたり,音が止む.
あとに残ったのは,深くきらめく紫色の粉末がひとつまみ.それと,結晶の中に埋まっていた核,小さな虹色の立方体だった.彼の指がすぐさまその核をつまみあげ,小函の中に放り込む.
わたしは,完全に置いていかれた.不可解だった.何が起こったのか,何も分からない.幻覚でも見ているかのようだった.
「あの,これ,どうして」
質問しようとして,しどろもどろになる.どこから,何を尋ねるべきか分からない.
「さあ,では,これを持って」
彼はわたしの混乱を,きっとわざと無視して,この手に先ほど組んだ透明な管を握らせた.質感から,それがやはりガラス管だと分かった.
「しっかり持ってね.そうしたら,」
管を持つ指に,彼がそっと手を添える.わたしの腕は,彼の導く手に従って動く.ゆっくりと,腕が上がってゆく.そうして,重ねた手が顔の高さにまできた時,つい,彼の目を見てしまった.視線が重なる.ずっと顔を見られていた.ぼぅっと月光を灯した彼の視線が,わたしの瞳孔の奥に這い込んで,絡みつく.心臓の音が,うるさい.
「管の先を浅く,鼻の中へ」
彼は視線を外さない.覗き込まれている.動けなかった.ただ,片手だけが彼の導きに沿って動き,ガラス管の透明な先端を,わたしの鼻腔の入り口に留めた.彼の手が離れる.すると,高鳴っていた鼓動が,ぷっつりと消えた.静か.音がしない.声だけが,澄みわたる.
「口を閉じて」
彼の指が,わたしの唇の隙間を埋めた.
「そう,管は動かさない.少し,息を止めて.粉が飛んでしまうから.いいね?」
肺が凍った.口はもう,開かない.
わたしはゆっくりとした瞬きで返事をする.
彼はガラス管のもう片方の先端を,手のひらの上,アメジストの粉末に添えた.口を塞いだ彼の手に,少し力がこもるのを感じた.
「吸い込んで」
あ.解凍された肺が勝手に膨らむ.その時きっと,わたしはアメジストの粉を,鼻から一気に吸い込んだ.
「目を瞑って」
その声に,まぶたが落ちた.光が消える.彼の手が,閉じたまぶたをさらに覆う.闇.暗い.力が抜ける.目眩.ああ.立っていられない.すると,足が宙に浮いた.持ち上げられたらしい.抱き抱えられて,上下に軽く体が揺れる.すぐに,柔らかな感覚がわたしの全身を受け止めた.ベッドに運ばれたのだと気がついた時,すでにそれは始まっていた.
「ぜひ,目は閉じたまま.何か,感じますか?」
近くに彼が座ったのが分かった.しかし,声がやけに反響する.距離感もあやふやだ.
「はい,ただ,なぜか」
そしてこれは,一体なんだろう.わたしはいま何を.
「まぶたの裏,でしょうか.とにかく目の前に……景色,映像が」
「見えているようですね」
わたしは何かを見ていた.音はない.夢とも違う.幻覚や幻視の類いとも,また違う気がした.喩えるなら,眼球の奥で映写機が廻っていた.その光は水晶体をまっすぐ通過して,まぶたの裏側に映写されていた.わたしは完全に覚醒したまま,それを鑑賞していた.それは,映像としか表現できない何かだった.
万年筆の先から青いインクが滴り落ちる.
砂漠の朝日に向けて檸檬を投げるのは少女だ,振り返って笑う.
指揮棒が落下して,指揮台の上で跳ねた.
片羽の蝶が隊列を組んで密林の濡れた地面を這う.
ただ,赤い.徐々に黄色くなる.
病室,枯れた花と熟れ過ぎた果物.
水面に揺れる虹色,歪んだ円形の光.
ガタガタと揺れている.
二つに割れた王冠.
泥だらけの手,薬指がない.
突端の欠けた銃剣と,一面の菜の花.
稲妻の一閃,枯れ枝のようだ.
大樹に打ち込まれた一本の杭は錆びている.
老夫婦がウェディングドレスと拳銃を買い集めている.
極彩色の幾何学模様がうねる.
劇場だろうか,照明が一度に全部切れて,天井が崩れ落ちた.
誰もいない教室,黒板の方程式,一つ,椅子のない机がある.
見たことのない,美しい料理の数々,ただ,グラスが全て割れている.
巨大な絵,壁かもしれない,とにかく燃えている..
雨に濡れて回転する古い椅子.
断線した受話器.
玉乗りするアルビノの象.
なに.いったい.これは.
「これは,わたしは何を見ているんですか?」
目まぐるしく,それは切り替わる.入れ替わってゆく.印象.色.形.動き.はっきりとした輪郭を持つもの.抽象絵画のようなもの.脈絡は感じられない.しかし,混ざり合うこともない.淡々と,万華鏡のように変化し続ける,離散的な映像.
「それは,電波の残滓です」
「電波?」
「はい,いま君が見ているのは,かつて電波に乗りながらも,ついに音にも,言葉にもならなかったものです」
そうか.これは,残されたものなのか.取り残されたものなのか.なるほど.だから,どれもこんなに.
「わたし,目を開けたら,どうなるの?」
手探りで彼の体に触れた.その手を,彼はすぐに握り返した.
「どうにもなりません.安心してください.いま見ているものが,見えなくなるだけですよ」
「そう」
「はい」
「ねえ」
「はい」
「じゃあもし,このまま……目を閉じたまま眠ったら,わたし,どんな夢を見るのかしら」
「さあ,どうでしょう」
「分からないの?」
「はい,その……分からないというか,知りません」
「そ,ならいいの」
「眠いですか?」
彼の手が,不意にわたしのデコルテを撫でた.
「いいえ,ちっとも」
わたしはパッと目を開けて,すぐ隣にいた彼に抱きついた.そして月明かりの照らす青白い頬に,そっと口付けした.背中から,肋骨へ,彼の腕がわたしの体を包む.アメジストの幻は,嘘のように消えていた.その夜,わたしが眠るまで,部屋はずっと月の光で満たされたままだった.
目を覚ますと,昼過ぎだった.天窓からは日光が降り注ぐ.先に起きた彼は,もう着替えを済ませたようで,机に向かって何かをいじっている.
「おはようございます」
わたしは肩越しに彼の手元を覗き込んだ.
「やあ,お目覚めですね」
果たして,そこには上蓋の開いたままの,ガラス製の小函があった.
「何をしているの?」
「ああ,」
彼は少し気まずそうに目頭をおさえた.
「昨日,勝手に結晶を使ってしまったから.ビスマス鉱を検波回路に組み込み直していたんです」
そう言って,彼は上蓋をしめた.ぱち,と,気持ちの良い音がする.太陽光の下で見る小函は,やはりラジオというよりもオルゴールに似ていた.
「終わったの?」
「ええ,ちょうど今.これで,しばらくすればまたアメジストが結晶するはずです」
「しばらくって?」
「あの大きさですから,そうだな,3ヶ月というところでしょうか」
「そういうものなのね」
「はい,しかも核であるビスマスは消費されません.面白いでしょう」
ええ,と,わたしは曖昧に笑った.
朝食を兼ねた昼食は,祖母が作ってくれた.蒸し貝,野菜と豆のスープ,イギリスパンは焼き立てで,薔薇のジャムはお手製らしい.彼は今朝も,ひと口ごとにその味を絶賛して,祖母をすこぶる喜ばせている.わたしは余ったジャムを紅茶に溶かしながら,昨日の夜の幻について考えた.
祖父もきっと,石を吸ったのだろう.そして,あの幻を見たのだ.わたしが見たものと,祖父の見たものは,たぶん違う.もう一度石を吸っても,きっと同じ映像は現れないだろう.そう確信するくらい,あれは気まぐれな映像だった.それでも,わたしにはわかる.祖父は石を吸うのが大好きだったはずだ.だってアメジストの紡ぐどの映像も,おじいちゃんの撮る写真にとてもよく似ていた.写真家として世界中を旅していた祖父は,晩年体を壊して,遠出が出来なかった.この屋敷の屋根を塗り終わってからは,ほとんど外出もしなかったらしい.本格的な入院生活が始まる前に,カメラはすべて処分したそうだ.
複数の地球に囲まれて,複数の時間を並走させて,ままならない体をベッドに沈める.透明な小箱を片手に,ガラス管で粉末にした石を吸う.月明かりの下,目を瞑り,アメジストの見せる幻を眺めて,思い思いに空想のシャッターを切る.そんな祖父の姿が,今のわたしにはありありと想像出来た.鉱石ラジオと天球儀.いかにもおじいちゃんらしい.あの部屋で,あの幻を見た今なら,そう思う.
わたしはまた,いつかどこかで石を吸うことがあるのだろうか.もしそんな機会があったなら,その時はまた,彼が隣にいる気がする.彼.そういえば,気掛かりだった.彼はなぜ,あんなにも鉱石ラジオに詳しいのか.いや、この際,詳しいのはかまわない.別に彼はいつだって,何にだって詳しいのだ.それよりも.粉末化から吸引まで,あらゆる作業が妙に手馴れていた.彼自身も石を吸ったことがあるはずだ.それはいつ,どこで.……誰と?
祖父のことを一つ知ったわたしは,彼のことがまた一つ,分からなくなった.そもそも彼については,出会った頃からよく分からないままだ.その人となりを,誰かに説明するのも難しい.時々,わたしは彼について,何も知らないのではないかと思うことがある.不用意に彼の世界に立ち入ってしまうことを,心のどこかでおそれてもいる.彼はすっかりわたしのことを,なんでも知っているのに.空になったティーカップを置いて,ふと横目に彼を見ると,目を閉じて紅茶を啜っていた.紅茶に口をつけるとき,目を閉じるのは彼の癖だ.それと,カップを持ちあげるとき,ソーサーを添える.冬が好きな,寝不足の読書家.そうだ.知らないこともあるけれど,知っていることもある.きっと,わたししか知らないことだって.
その日の夕方,予定より少し早く,わたしたちは祖母の家を出ることにした.優しくて気忙しい祖母はずっと動き回っていて,見ていて心配になったからだ.そう多くない荷物をまとめている間も,祖母はしきりにわたしたちの忘れ物を確認して,家中を探し回っていた.
「おばあちゃん,ありがとう」
「またおいで」
「たいへんお世話になりました.鶏肉,本当に美味しかった」
「また食べにいらっしゃい.それと,この子をよろしく」
玄関と,庭の門の前.祖母はわたしと彼を,交互に二回ずつ抱きしめた.やはり,祖母からは祖母の匂いがした.後ろ手に門を閉めて,屋敷の方へ振り返ると,二階の窓から祖母が手を振っていた.わたしは大きく手を振り返す.彼は深くお辞儀をした.暮れなずんだ空を背負って,来た時よりも,屋根の色が鮮やかに見えた.
「駅まで,どうしましょう」
「歩こう.日陰はもう涼しいですよ」
道端に出ると,海が見えた.手を取りあって,わたしたちは緩やかな坂道を下る.海を背景に,姿勢良く歩く彼の姿を見て,わたしは空想のシャッターを切った.初夏の青い風が,二人の間を吹き抜ける.
「あ,カモメ」
わたしが空を指さす.
「いないじゃないですか」
雲ひとつない空を見て,彼が笑う.
坂道.潮風.遠い波の音に混じって,耳鳴りのような,細く高い音が,どこからともなく聞こえた気がした.