その夜,空は高々と濃紺だった.ふだんよりずっと低く大きな月があたりの星光を淡くして,月光をふくんだ薄雲を千切りながら,海風が黒々とした波を囃していた.月明るく,ごうごうと風は鳴り,渚に波頭が崩れる音もあたりにざあと響くのに,どうしてか,目にも耳にも,その夜はやけに静かに感じられた.

 

月はゆるりと夜空をくだり,くっきりとした円周を勇んだ波に舐められながら,やがてその身を海に浸した.すると,光は帯となる.太陽の気配を白く反射した月光は,とろりと海面に溶け出し,そのままつーっとまっすぐに伸びて,眼下の浜辺にまで届いた.黄金の川のようだと思った.そしてまた,白銀の橋のようだとも思った.

 

川にせよ,橋にせよ,いずれにせよ,月から海をわたして浜辺へと伸びた光の帯は,つよく彼岸を予感させた.渡れそうだった.どこかへ繋がっている気がした.光の上はたしかに人の足取りを受け止めて沈めず,光の下は海底まで個体として凝結し,光の先には光が隠す何かがある.きっとある.そう思った.光はいつも,闇よりも多くを隠すからだ.だからあらゆる謎は輝いている.

 

それは空虚な旅の夜のことだった.空虚を持て余して,海辺のホテルのバルコニーで身を乗り出したとき,そこには海と月しかなかった.あまりにも水と光しかないものだから,つい何かを探した.しかし探せば探すほど,そこには水と光以外,何もなかった.何一つなかった.何一つなかったということだけが,あの間延びした旅の,たったひとつ鮮やかな記憶になっている.

研ぎ澄まされた感覚の,まばゆいほどの一閃を見た.素直に感心したし,なにより,そのようでありたいな,と思った.こうしてまた僕の自己実現は抽象化してゆく.そして僕は,なぜか,なんだか,いつも現象でありたがる.ひらめきであったり,嵐であったり,喝采であったり,祈りであったり,混乱であったり,開花であったり,詩作であったり,恋であったり,慈悲であったり,克服であったり,迷いであったり,したがる.人間でいることにすごくこだわって,人間の可能性,人間の美しさ,人間の豊かさをきっと誰よりも本気で信じているくせに,人間でいることに心底疲れ切っている.人間としての必然性を何よりも重視しているくせに,人間存在についてとても安易に狂気を定義するし,その狂気の排斥を,それこそ狂気的に徹底しようとする.さあ僕の狂気を愛せ.

勝手に永遠だと思っていた.勝手に無限だと思っていた.僕はいつも勝手にそういう,終末のなさを思い描いては,ずっとその中に生きている.僕の世界に終わりはなくて,ただ続いていく.咲いたり枯れたりしながら死と蘇生を繰り返す花が,あるいはその根が,またはその根が巻き取り絡まる柔らかな土が,もし夢を見るのだとしたら,きっと僕の見ているような景色が,そこには広がっている気がする.花も根も土もいつか目覚めるだろうか.僕のこの白昼夢もいつか終わるだろうか.それとももう,本当は何もかも終わっていて,ラプラスのデーモンなんてとっくに退いた無観客の舞台で,たった1人の終わらないカーテンコールを続けている,僕はそういう,おかしな踊り子なのだろうか.

天才扱いを受ける.受けてきた.いつからかは思い出せない.昔からそうだった.天才.なんて簡単な肩書きだろう.ポジティブな感想なのだということくらいは分かる.しかしそれ以上は何も分からない.僕を天才呼ばわりする人は,僕の何を理解することを諦めているのだろう.僕のどんな部分が,彼や彼女にとって不可解なのだろう.僕はいつだってこんなにも分かりやすいのに.僕の肉体は透明なアクリルのようで,だから肉体の内側に置かれた僕の魂の色や形は誰から見ても明らかなように思えるし,僕の表現はいつも僕自身の内面性をあからさまに代弁しているというのになぜ,みんな僕を理解するのを諦めてしまうのだろう.

僕は誰かに理解されたいわけではないし,むしろ誰にも理解されないような,自分すらも理解できないようなひとつの嵐や,一つ繋ぎの混乱でありたいのだけど,たとえば自分の目の前に今の自分くらい混乱した存在があらわれたとしたら,僕はきっと彼や彼女を理解したくて理解したくてたまらなくなると思う.

でもみんなはそうならない.不思議だ.

見知らぬ土地で過ごす.離れること.しかも,遠く離れること.移動ではなく,居住すること.そんなことごとを,静岡で噛み締めている.

僕は結局のところ,都市の人だし,都市の気配の中でしか,いたるところ匿名な街並みの中でしか,きっとそれらしく生きていくことができない.それを日々実感している.消費に最大の価値を置くような都市的な生活が必要なわけでも,見栄を張って都会人ぶって生きていたいわけでもない.僕が都市を必要とするのは,僕のような存在者の理想がそこにあるからだ.変わり続ける混沌.僕は都会の街並みのような人間でありたい.無自覚で無遠慮なスプロールを絶えず繰り返す,魔法じみた出来事たちの器でありたい.

博物学ドキュメントシリーズを再読する.くだらないが面白い.くだらなさにとことん付き合うのは人間的美徳だとつくづく感じる.くだらないものにいくら付き合ってもくだらない結論しか出てこないのだけど,くだらないことに一生懸命なその姿勢そのものはほぼ必ず面白いし,そこにはある種の尊さすら宿る.

博物学という学問は,今となれば未熟児のまま死んでいったような印象が強く,蒼古な風合いそれ自体を愉しむ高踏的ディレッタンティズムのカビ臭い雰囲気も漂うが,その表面の埃を払って読み返してみると,当時の知識人がインク臭い部屋でさもくだらないことを大真面目にものしている光景が思いなされて感慨深い.「サイと一角獣』も『フイシオログス』も,どことなくボルヘスっぽい諧謔を感じさせるよい本だった.

誕生日だ.数年前までは誕生日のたびに暗い暗い文章を書いて,自分で読み返してげんなりしたりもしていたのだが,あまりにも不毛なのできっぱりやめた.今思えば何のためにあんなことをしていたのか見当がつかない.どうかしていたのだろうな.もっとも,僕は常に何らかの意味でどうかしているのだけど,異常者としての長いキャリアを振り返るまでもなく,どうかしている人間についてはどうしようもないという点,ここには深い自覚を得ている僕は,そのどうにもならなさと時々向き合ったり,大抵の場合目を逸らしたりしながら,向こうもう一年も生きていこうと思っている.

ああ,本当に,これくらいの文章でよかったんだ.何であんなに,よりによって誕生日に,禍々しくも重々しいものを書いていたかなあ.