うまく定義されているべき言葉に限って,下手に乱用される.異常-正常のペアとか.ここでいう"うまく"っていうのは,概ね"形式的に"と同義で,形式的な定義の有効性は,曖昧さに由来する解釈のグラデーションを,閾を使ったケースに封じ込めて排除する点にある.閾(値)が慎重に検討されるべき言葉に限ってそれが蔑ろにされるのは,コミュニケーションにおいてはふつう,発話された命題の真偽よりも(有意味な)文としての雰囲気が優先されるからだ.コミュニケーションが雰囲気の交換であって,情報の交換ではないこと.そしてコミュニケーションにおける情報の交換の結果は必ずしも新情報の追加/獲得を意味しないことを知ったのは,自分史的には比較的最近のことで,この気づきを僕は"物心の獲得"と同一視して,そう呼んでいる.これが一般に言われる"物心"と一致しているか否かについてはちょっと自信がないが,自分用の言葉遣いとしては直観的に妥当と感じるので,変更の必要に迫られるまではこのままいこうと思う.変更の必要に迫られる場面がうまく想像できないので,このまま墓場まで持ち込まれる場合も十分に考えられる.