もう声は届かない.そこには何も残らない.あなたは忘れてしまう.何もかも,きっとこれからどんどん忘れていってしまう.死んだんだ.僕の愛したあなたはもう死んでしまっていて,あなたの身体は単なる面影の器になってしまった.不気味で仕方ない.あなたの声で,あなただったら決して口にしないようなことを口にする"誰か"がいる.あなただったら決して見せない表情を見せ,あなただったら決してしない行動をとり,あなたが忌み嫌っていた愚かさを軒並み犯す,あなたの形をした,誰か別の人.あなたが変わったわけじゃない.そんなに生易しいものじゃない.死んだんだ.もうあなたの魂は誰の言葉も,誰の手も届かないところに隠れてしまった."誰の言葉も,誰の手も".これは妥当な推論だ.思い上がりなんかじゃない.僕の言葉が届かず,僕の手が届かないのなら,もう他の誰もあなたには触れられない.あなたにとって僕は,出会った瞬間からずっと,そういう存在だった."唯一の生き甲斐"だと,しつこいくらいそう言われ続けた.これまでは確かにそうだった.いまはそれがとてもあやふやで,いつか遠くない未来,そうではなくなるのだろう.あなたの中から僕が消え去る.この僕が.そんな日が来ることを予感してやまない今の自分が信じられない.あなたはずっと,あなたのまま,理知的で,自由で,徳高く,慈しみに溢れたまま,綺麗に枯れてゆくものと信じていたから.なんとなれば枯れることもなく,その時がきたら牡丹のように落ちるのだと思っていた.

不思議と想い出に浸れない.きっとまだあなたの肺や心臓が動いているからだ.あなたの身体が矍鑠と動いているからだ.本質が蒸発したまま駆動を続ける,虚しい器官,筋肉,原始的な脳.愚かなオートマタだ.こんなの,皮肉にもならない.あなたが一番嫌っていたはずの人間性が,いまあなたの身体を支配して,まるであなたのような顔をして,あなたの生涯の最終盤を乗っ取っている.その事実に,僕は怒っているんだ.許せない.認められるはずがない.こんなに屈辱的な自傷があってたまるか.誰よりも自分の理性と品位に誇りを持っていたあなたが,誰よりも自分の生き様を祝福していたあなたが,いくつもの人生の守護聖人のようなあなたが,どこで何をどう間違えたら,一瞬にして痴れた老人に成り下がるんだ.急すぎる.耄碌なんて言葉は説明にならない.僕はそんな言葉では納得しない.あなたは絶対に,進んで自らの晩節を汚すような人じゃない.だから,死んだんだ.僕の知らないうちに,あるいは僕に知られぬように,あなたは死んだ.あなたはもうどこにもいない.僕たちはもう,二度と会わない.言いそびれた無数のありがとうも,無数のごめんなさいも,赦して欲しいことも,赦したいことも,あなたに宛てたまま積み上がった言葉たちはまるごと行き場を失って,僕の魂の底でこれからずっとずっとくすぶり続ける.こんな呪わしい,火傷しそうな後悔も,かつてのあなたならなんとかしてくれたのに.

どういうわけか,あなたの器はまだ生きている.食べ,眠り,生活をしている.だからいまは,弔うこともできない.悼むこともできない.ただ悲しい.そしてこんなに悲しいのに,ふさわしい悲しみ方が,まだよく分からない.涙を流していいのかどうかも,まだ,誰も教えてくれない.